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最近最も注目されるM&A交渉は、富士フィルムによるゼロックスの買収案件でしょう。当初はすんなりいくかと思いきや、ゼロックスの大株主アイカーン氏の反対でこじれてきています。友好的なMAだったはずが、敵対的なM&Aになりつつあるという状況。

 

今後どうなるかは予断を許しませんが、富士ゼロックスの存在がキーになることでしょう。富士ゼロックスは1962年、富士フィルムとランク・ゼロックスの50%ずつのJVとして設立されました。当初は、ゼロックス製品をアジアで販売する販社でした。しかし、徐々にキヤノンなど競合日本メーカーが現れ、日本市場に適応した製品が求められるようになり、富士ゼロックスも生産機能に加え、製品開発機能も備えるようになっていきました。

 

富士ゼロックスの商圏はアジア地域に限定されているため、アメリカやEUの市場では販売できません。しかし、ゼロックス本体の製品では欧米市場ニーズに応えることが難しくなり、ゼロックスは富士ゼロックスから製品の提供を受けて欧米市場に販売していくようになります。

 

徐々にゼロックスの経営は厳しくなり、2001年ゼロックスは所有する富士ゼロックスの株の25%分を富士フィルムに売却します。これで、富士ゼロックスの株式は、75%を富士フィルムが、25%をゼロックスが保有となりました。

 

そしていよいよ今回の一連のM&A騒動は、名門ゼロックスを富士フィルムが完全買収する計画です。交渉決裂した場合、ゼロックスと富士ゼロックスとの契約が解除され、袂を分かつ可能性もあります。

 

問題はゼロックスが富士フィルムとの関係を断って、単独で生き残れるかどうかです。ゼロックスは富士ゼロックスから製品を入手できないならば、と競合であるコニカミノルタやリコーに納入の打診をしたが断られたとの報道もあります。断られるのは当然でしょう。

 

一方、富士フィルムは、これまで販売できなかった欧米市場に富士フィルムのチャネルを使って、富士ゼロックス製品を販売できると豪語しています。ゼロックスはアジア市場にチャネルを持たないだろう、と添えながら。複写機はフィールドサービスが重要なので、容易には新規市場には参入できません。

 

ここまで富士フィルムが強きに出られるのは、相対的に強力な製品を持つ富士ゼロックスの株式を75%押さえているからですが、そもそも富士ゼロックスが単なる販社から組織能力を高めて、現在のメーカーとしての競争力を獲得したことが極めて大きい。さらに、JV設立時には市場として魅力が小さかったアジア市場が急成長し、一方でその反対に欧米市場は縮小を続けるという逆転現象。遅れたアジア市場を割り振られた富士ゼロックスにとっては、怪我の功名でしょう。

 

しかし、なぜ富士ゼロックスはいわば師匠を超えるような組織能力を獲得できたのか、ずっと不思議でした。そこには、日本の製造業が磨いてきた「現場発の経営革新」の存在があったと、本書を読んで知りました。QCとか現場主義といえばトヨタですが、他にもその能力を磨いてきた企業があった。

 

本書「現場主義を貫いた富士ゼロックスの『経営革新』」は、日本企業が強かった秘密を、具体的に教えてくれる名著だと思います。過去形を現在形にするための、ヒントがたくさんあります。

現場主義を貫いた富士ゼロックスの"経営革新"―品質管理、品質工学、信頼性工学、IEの実践論―
土屋 元彦
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前回、ある企業の新規事業開発プロジェクトについて書きました。今回は、そもそも製品開発と新規事業開発はどう違うのか、どういうフレームワークで事業拡大を考えたらいいのかについて考えてみたいと思います。

 

事業開発と製品開発の違いとは何でしょう。製品開発とは、あるに製品によって既存市場の一定シェアを確保し収益を獲得することと言えます。ただし、市場規模やシェアには限界があるので、どれだけ持続可能かはわかりません。一方の事業開発とは、潜在顧客の抱える問題を解決する手段を提供することです。それが一つの製品かもしれませんしサービスかもしれません。市場やニーズが変化すれば、それに沿った手段を模索し続けることになります。問題が消滅しない限り、収益確保の持続可能性は高いと考えられます(自社がどれだけ取れるかは別議論ですが)。したがって、経営者の視座からは、事業開発しか視野に入っていないと言っても過言はないのです。製品のことは事業部長が考えるべきこと。

 

有名なアンゾフの「多角化マトリクス」は、市場と製品を、既存か新規で分け4象限に区分していますが、今の時代には古過ぎ、逆に思考を束縛しているように感じます。あまりこだわらないほうがいいと私は思います。製品よりも、「ビジネスシステム」に、また市場よりも「(潜在顧客の)問題」で切ることが有効に思います。

 

アンゾフの時代では、企業が開発した製品を市場に提供し、そこから対価としてキャッシュを獲得するという、シンプルなビジネスを想定していました。しかし、現代のビジネスは、もっと複雑なことのほうが多い。

市場をどう定義するかが非常に難しい。それよりある共通の問題を抱える集団として捉えたほうがわかりやすい。そして、自社はその集団に対して「製品」を提供するのではなく、ソリューションを提供する。あらゆる業界が、問題解決型になっているからです。自社は、ある問題についてあらゆる手段を使って解決を目指します。自社の製品でなくてもいいかもしれませんし、製品でなくサービスのほうがいいかもしれない。大事なのは、製品ありきではないことです。

 

その際に、自社が解決するのに得意な問題とそうでない問題があります。古い例ですが、1970年代ビックペンは安価で使い捨てのボールペンで一世を風靡しました。ご多分に漏れず多角化をめざし、他の安価な筆記具を開発しましたがさっぱり売れない。その後、使い捨てライターが大成功します。ビックが得意な問題とは、安価な筆記具でも文房具でもなく、使い捨てできる安価な日用雑貨だったのです。使い捨て剃刀でも成功しました。つまり、市場や製品ではなく、自社にとって既存の問題かどうかが重要なのです。また、自社にとって意味のある新しい問題を発見することも重要です。それを発見する切り口の一つが、メガトレンドです。

 

もう一軸は、ビジネスシステムです。ビジネスシステムとは、自社が価値をつける取引先から潜在顧客までの流れとその仕組みを指します。どういうステークホルダーと関わって、どうやって価値を提供し代価を得るかのシステムです。このシステムの多様性が非常に高まっているのはご存じのとおりで、パッケージを売っていたマイクロソフトに対して無料でソフトを提供するグーグルが現れたように、一昔前では考えられなかったビジネスシステムがたくさん出現しています。マイクロソフトがグーグルの真似をして無料でソフトを配っても、絶対勝てないでしょう。解決すべき問題と同様、得手・不得手があるのです。

 

そうはいっても、かつての多角化(新製品・新市場)のように、苦手で成功率が低いとわかっていても、やるべき時があるでしょう。あえてやるのであれば、その難しさを理解したうえで方法を考えることが重要です。

 

セブンイレブン・ジャパン(以下セブン)は、これが非常に巧みだと思います。「新問題X既存システム」(問題発見)は公共料金の取り扱い。コンビニにとって公共料金の支払い受付は、当初想定していなかった顧客の問題でしょう。でも、銀行はすぐ閉店してしまうので、払いたくても払えないというセブンにとっては新たな問題を、POSレジという既存システムで解決したのです。

 

「既存問題X既存システム」(新製品開発)は、セブンプレミアム。顧客は、手頃な値段で高品質の商品を入手したいが適当な店がないという問題を以前から抱えていました。コンビニは以前からPBを扱っていますが、PBとはそこそこの商品を安く提供するための商品であり、高品質を追及すべきでない、それはNBの役割だ、との思い込みが業界にあったようです。しかし、NB商品は顧客のコスパ要求に応えていない。そこで、セブンが高品質PBというカテゴリーを創造して成功を収めました。ビジネスシステムは既存で十分です。満たされていなかった既存の問題へ、自らが正面から取り組むことにしたのです。

 

「既存問題X新システム」(ビジネスシステム革新)は、淹れたて100円コーヒーです。もっと美味しい淹れたてコーヒーを安く手軽に飲みたいとの問題は、以前からありました。それに対してマックがマックカフェとして解決策を提示し、一定の成功を収めていました。セブンはコーヒーに関しては、缶などの物販というシステムしか持っていませんでした。しかし、コーヒー豆の商社やコーヒーメーカーの製造会社と共働で、100円で淹れたてコーヒーを提供できるシステムを新たにつくりあげたのです。

 

「新問題X新システム」(新規事業開発)はセブン銀行。コンビニにとって、客からお金はもらっても、お金を提供することは、まったく眼中になかったでしょう。客が夜中にお金をおろせないとの問題は、コンビニにとっての問題ではなかったのです。しかし、セブンは店内にCDがないから現金不足で買ってくれない客もいる、それは解決すべき問題だと問題を再定義したのかもしれません。当然既存システムでは対応できません。しかも、他行にCDを置くスペースを貸すモデルではなく、いちから銀行を新規設立する方法を選んだ。これは非常に戦略的意思決定だと思います。

 

以上のように、セブンは新しい問題に対しても、他者の力を借りるなどして新しいシステムを構築し事業を拡大し続けています。コンビニ市場は飽和だと数年前は言われていましたが、視点を変えるだけでまだまだ成長余地を発見することができるに違いありません。古いコンビニの箱に留まっている競合と差はつく一方です。


古い箱に拘泥せず、「新しい視点」を獲得できるかどうかが、企業の生存を決めるのだと思います。

 

昔から経営資源には、ヒト・モノ・カネがあると言われていますが、この3要素の関係はどうなっているのでしょう。

 

儲かりそうなモノを造ったり仕入れたりして売買するために、必要なヒトやカネを投入するという関係が普通だったと思います。貴重な香辛料を売買するためにお金を集めて船を造り、船長や船員を集めるという大航海時代から、それは一貫していました。特に戦後日本では、カネを調達するのが大変でした。

 

しかし、近年おカネ自体が商品になる傾向がありますし、またおカネを蓄積してその有効活用を図ることを主業務にするサービス業が増えています。年金基金や投資ファンドがその代表です。その背景には、社会が成熟、高齢化し、おカネはたまっていても運用先が乏しいという世界的傾向があります。そう、カネ余りです。銀行は貸出先が見つけられず、預金で集めた資金の半分以上を国債で運用する始末です。

 

さらに人口減少時代を迎えた日本では、労働者一人当りの生産性を向上させなければ、高齢化する社会を支えることができません。

 

そういう時代においては、経営資源3要素の関係も変わらざるをえません。余っているカネを活かせて、またヒトの能力を最大限発揮させることのできるモノを探すという形が普通になってくるでしょう。つまり、モノの位置づけが主から従になり、カネとヒトが従から主になります。ただしカネはコモディティ、つまりそれ自体に意味はありません。量が問題であって質は意味を持ちません。

 

一方、ヒトは量よりも質が意味を持ちます。Aさんが1時間で生み出す価値の100倍の価値を、Bさんが生み出すことには何の不思議もありません。これはBさんの能力が高いからかもしれませんが、それ以上にBさんとAさんとでは能力を活かす場、もう少しいえば関わっている仕掛けが違うからと言えそうです。

 

ヒトとカネを活かせるモノ(あるいは仕掛け)を探すことと、

モノを造るためのヒトとカネを探すことは、

似て非なるものです。

 

日本メーカーの多くが苦境に陥っているのは、後者のパラダイムから抜け出せないからではないでしょうか。

 

ソニーの会社設立の目的の一つに以下があります。

一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設 

 

ソニーに限らず、本来日本的経営は、ヒトを活かすことを第一にしていました。それがいつのまにかアメリカ型経営にかぶれて、多くを見失ってしまった。

 

しかし、考えようによっては、これからの成熟した時代には、日本の本来の強みが活きると考えることもできます。そのために、ヒトの能力を活かすことを第一に考えるべきです。そのための場づくりにはノウハウはありそうですが、仕掛けづくりはまだまだです。それが今の日本企業最大のチャレンジでしょう。

アップルがほぼ占有しているタブレット市場に、アマゾン、マイクロソフトどころかグーグルまでが自社製品(ハード)を引っ提げて参入するとの発表がありました。ここは、ソニーやNEC、東芝といった日本メーカーからサムソンまで既に参入済ですが、ほとんどアップルの地位を揺るがせることができていない市場です。

 

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なぜグーグルはスマートフォンと違い、自らハードを開発することにしたのか。アンドロイドを無償提供し他社にハードを造らせて、アップル包囲網を築いたスマホとは何が異なるのか。興味はつきません。Google nexusという自社製スマホもありましたが、大したた地位を獲得できませんでした。それと同じことなのか)

 

その前に、アップルが開拓したタブレット市場に参入する理由を考えてみましょう。ひとつは、急成長する市場からたとえ一部でも利益を獲得したいという、(言い方悪いですが)「おこぼれ頂戴」戦略、戦略論でいえば模倣戦略です。もうひとつは、これからまだ成長する市場において、自社独自能力を活用することで、市場の発展進化をドライブすることができると考え、参入する「進化加速」戦略です。

 

残念ながら日本メーカーは、全ておこぼれ頂戴戦略でしょう。高度成長期の松下のようにその戦略で成功することは、21世紀にはもうあり得ないと考えます。一方、アマゾンのキンドル・ファイアは、アップルが開拓したタブレット市場を、別の方向へ進化させることを狙っているのだと推測します。(まだ使ったことがないのであくまで想像です)

 

では、マイクロソフトやグーグルはどちらなのでしょうか?何を狙っているのでしょうか?誇り高いマイクロソフトやグーグルが「おこぼれ頂戴」戦略をとるとは思えないのですが・・・・。

ここ数日、日本の大手電機メーカーの大幅な赤字決算が、立て続けに発表されています。震災、タイの洪水、そして円高、確かに日本企業にとって極めて厳しい環境であることは確かです。しかし、赤字を発表する経営陣が、それらを言い訳に利用しているように見えてなりません。まるで、「誰が社長でも、今期は利益出せないよ」と開き直っているように見えることすらあります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、ですか・・・。

 

今回の赤字は構造的なものであって、決して震災などの一過性のものではないことに気づくべきです。TVが売れないのは、円高だからではなく、魅力的な製品を出せないからです。多くの経営者はあまりに他責に陥っているようで、非常に不安です。

 

これまでの日本企業はスペックでの競争が得意でした。また、それを顧客も評価してきました。ところが今は違います。薄型TVに代表されるように、スペック面での進化は、顧客の認識レベルを超えるところまでいきついてしまいました。つまり、「もうたくさん」なのです。そうなると、あとは価格競争しかありません。他国の競合も、そのレベルのスペックに到達しているのですから。

 

この構図はあらゆる製品において実現しており、かつそのスピードはどんどん速まっています。スペック競争に代表される機能的価値の商品価値に占める割合が、どんどん低下しているのです。

 

では、機能的価値以外にどんな価値が重要になっているのでしょうか。それが意味的価値です。主観的価値とも言えます。つまり、定量的にその良さを説明するのは難しいけれど、「好きだから」少々高くても買うという場合に、顧客が余計に支払う金額で表現されるものです。マーケティングの世界ではそれをブランドと呼ぶのかもしれませんが、ブランドの源泉となる何かです。

 

現在、最もそれが得意なのがアップルでしょう。日本でいえば無印良品や任天堂(Wii以降ぱっとしませんが)もそれに近いかもしれません。また、かつてのSONYもそうでした。

 

なんとなく日本企業は、機能的価値創造は得意なのだが、意味的価値創造は苦手という風潮がありませんでしょうか?今回赤字決算発表をした経営者の言葉の端々にそんな印象を受けます。私は決してそんなことはないと思います。それは言い訳にすぎない。日本人ほど、意味的価値を好み、受け入れ、対価を支払ってきた国民はいないでしょう。たしかに、ここ十数年はデフレの波にさらされ、低価格志向は高まっていますが、それは表面的な現象だと思います。

 

たとえば、桃山時代以来のお茶椀を愛でる伝統。機能的価値はほとんどわずかのモノに対して莫大な値段がついてきた。そう、意味的価値のかたまりです。

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歌舞伎や能、落語といった芸能を、数百年にわたって大事に育ててきた。役者の機能的価値には、どれだけのものがあるでしょうか。日本人は意味的価値を高く評価し、また生み出す高い能力を備えているのです。高い美意識を持っているといういい方もできます。でも、それらをどこかで忘れてしまった・・・。

 

あらためて、自らの原点に立ち返り、自らの強みを認識し、活かす方法を考えてもいいのではないでしょうか。それなくしては、日本の再起はあり得ないように思います。いや、それどころか意味的価値の競争では、日本は世界のどの国にも負けないはずです。

 

 

「経営とはトレードオフにおける意思決定である」

ある経営者が言ったこの言葉は真実だと思います。例えば、利益を追求するのか、雇用を守るための成長を追及するのか、どちらかを選ぶことが経営者の仕事です。

 

しかし、ときに両方を目指すことが戦略上重要なことがあります。かつてのトヨタは品質とコストという従来トレードオフと考えられた分野において、その両立を実現させました。これがイノベーションです。

 

先日亡くなったスティーブ・ジョブズは、人間性と技術の交差点に立つことで世界を変えようとしました。アップル創業の頃は、最先端技術を駆使したコンピュータは、人間性の対局に位置づけられていました。彼は、そのときから既にそういったトレードオフの常識に対抗しようと考えていたのです。彼がアップル復帰直後、原点回帰を狙って作製されたTVCMは、

それを如実に物語っています。世界がやっと彼のイメージに近づいてきたところで、残念なことに亡くなってしまったのです。本当のイノベーターは、思想家でもあります。

 

ところで、個人と企業の関係はトレードオフでしょうか?「企業は人なり」の立場であれば、トレードオフであるはずもありません。総論はそうです。でも、ミクロの局面に立てば、トレードオフだと感じる人は多いのではないでしょうか。そこに組織の難しさがあります。しかし、これからの企業は、そこを乗り越える必要があるでしょう。以前に書いたカヤックなどは、その萌芽だと思います。

 

そういった環境では、経営戦略と個人との関係はトレードオフであってはいけません。企業が望む戦略を個人に浸透させるという考え方は、トレードオフの発想です。それでは創造性は生まれてきません。ジョブズの「人間性と技術の交差点に立つことで世界を変える」というような壮大なビジョンの下で、それに心酔した人々からその時々の戦略が内発的に生まれてくる、経営者はそれらを実現するための場作りをする、そんな組織がこれからの強い組織なのではないかと思います。

 

そのためには、ジョブズではないですが、人間性と戦略の交差点に立つ役割が必要になるのではないでしょうか。かつての古き良き日本企業では、経営者が常にその交差点に立っていたように思います。ソニーの井深氏、森田氏、ホンダの本田氏、松下電器の松下氏などが思い浮かびます。しかし、現在多くの企業では、それらが分断されているのが一般的です。中途半端な株主重視の経営を志向しだした多くの日本企業の経営者は、それを放棄したように見えます。

 

では、どうしたらいいのか?これを考え続けることが私にとっても、2012年の大きなテーマと考えています。

これまで経営戦略は、競争戦略と同義で扱われてきたと思いますが、最近どうも違和感を持っています。

 

そもそも競争戦略論は80年代に、HBSのマイケル・ポーター教授の「競争の戦略」から世の中に広まった言葉です。その本では、低成長にあえぐ米企業が、限られた市場の中で競合に対して強みを発揮しシェア拡大するための戦略を分析しています。隠れた前提は、市場が成熟しておりビジネスモデルの独自性余地は小さく競合とは同じ土俵で戦い、競合を市場から退場させることを最終目的とする、です。まさに伝統的な戦争のアナロジーです。80年代国内オートバイ市場におけるホンダとヤマハの競争などはそうだったのかもしれません。

 

でも現在では、これが競争だという事業が思い浮かびません。例えば、アップルとサムソンは、スマートフォンやタブレット端末の特許で対立していますが、iPhoneのデバイスにはサムソン製が多数使われています。また、トヨタは虎の子のHV技術を、日産をはじめ多くの競合メーカーに提供しています。そこには、上記のような前提はありません。それは戦略ではなく戦術だとの反論もありそうですが、戦略と戦術の峻別は無意味です。

 

では、現在の企業の経営戦略とは、どのような原則、前提に基づいているのでしょうか。

 

フランスの軍人戦略家ボーフルは、著書『戦略入門』(1963年)の中でこう書いています。

 

『勝利』という概念は、敵対する者との関係ではなく、自分自身が持つ価値体系との関係で意味を持つ。このような『勝利』は、交渉や相互譲歩、さらにはお互いに不利益となる行動を回避することによって実現できる。

 

決して相手をせん滅することが「勝利」ではなく、あくまで「自身の」(「世間の」ではなく)価値体系の中で争点を定め、その争点において自分の目的を達成することこそが「勝利」だと定義しているわけです。これは、近年の経営戦略の本質を喝破しているように思えます。

 

こういった戦略のパラダイムの変化は、人の生き方のパラダイム変化をも反映しているように感じます。つまり目指すべきゴールは、他人が決めた物差しに従って決めるのではなく、自分自身の価値観のもとで自らが決める。相対的な勝利ではなく絶対的な勝利。ただし、それは容易なことではありません。数年前に、「No.1よりもOnly1」というフレーズが流行りましたが、どこか現実逃避のにおいがしました。競争に疲れ、自分さえ満足していればそれでいいんだ、という甘え。

 

厳しい自己規律のうえでのOnly1(本人はOnlyにはこだわっていないはすですが)は生易しいものではなく、多くの挫折や苦悩を経てはじめて到達できる境地です。芸術家を見ていればよくわかります。果たして現在の日本の個人や企業、政府がそうした葛藤を乗り越えて独自の戦略を描けるかどうか。

 

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で、日本人社会の特徴として、人間の評価は「何を行うか」ではなく、「各々いかなるところを得ているか」でなされる、と書いています。そういう文化をどこかで変えなければ、勝利はまだまだかもしれません。

今朝の日経トップで、アマゾンが日本で電子書籍事業に参入すると掲載しました。やっとかとの印象ですが、日本でのスマートオフォン拡販によって電子書籍市場が立ち上がると判断したのかもしれません。

 

その記事の中に「国内の主な電子書籍配信サイト」の表がありました。それによると、ソニー系、紀伊国屋系、大日本印刷&NTTドコモ系、シャープ系、楽天系、凸版印刷&インテル系、と6つの主な運営事業者が挙げられています。

 

電子書籍用機器メーカー、印刷会社、書店、ネット事業社といった、電子書籍周辺の大企業が軒並み独自陣営を築いて参入していることがわかります。主なグループだけで6つあるのですから、本当はもっともっとあるのでしょう。

 

既存大企業が競合に出し抜かれまいと、あせって参入する姿が目に浮かびます。もちろん新規事業参入は、経済活性化のために好ましいことですが、それによってこれまでどれだけの価値を提供してきたのか、冷静に考えてみる必要があるでしょう。横並びの市場参入が過当競争を招き、多くの企業が疲弊し徹底しました。撤退自体は仕方ないですが、その過程での過当競争が適切な事業の育成を妨げてしまったことも多いと思います。その結果、消費者は市場を離れ、ペンペン草も生えない市場となった。もっと大事に市場を育てれば大きくなったかもしれないのに。挙句の果てに、戦略的に事業拡大を図ってきた海外のジャイアントに一気に日本市場を奪われる、こんなパターンが繰り返されてきたのではないでしょうか。

 

こうなる理由は、海外ではベンチャー企業が担う市場創造の役割を、余剰資源を抱えた既存大企業が最初から自ら手掛けようとするからに違いありません。また、アップルやアマゾンのように他社を巻き込んでエコシステムを構築するといったような、大きな構想を描くことができる企業がないことも理由のひとつでしょう。突拍子もない大きな絵を描ける異能の社員は、多くの日本企業では大きな力を持てないからでしょう。EVAなどの財務データ重視の経営が浸透するにつれて、ますますその傾向は強まっているようです。ソニーを見ていてつくづくそう感じます。

 

電子書籍を利用したい一読者としては、早くアマゾンに日本市場に本気で取り組んでほしいと願うばかりです。残念ですが。


 

それから、著者の権利を守るべく電子書籍に反対、あるいは都合いいように管理しようという出版業界も、まるで農産物輸入反対を唱え続けながら自ら没落しつつあるJA(農協)を見るようです。顧客のためといいながら、既得権益保護を最優先で考えている。経済合理性だけでははかりがたい食料や思想、(出版)文化を盾にして保身を図る人々の本音をしっかり見極めなければなりません。TPPに関する議論も、経済合理性では図れないものがあることも事実ですが、それだけに終始するのではなく、経済合理性とのバランス判断にまで突っ込んだまっとうでオープンな議論をしていただきたいものです。(ちょっと話がそれました・・・)

2000年前後、自動車業界で400万台クラブという言葉が流布しました。1社年間400万台以上生産しなければ生き残っていけないという趣旨でした。それを考慮したのかベンツがクライスラーを買収したり、大型M&Aが頻発しました。しかし、その結果はご存じのとおりで、いったいあの説は何だったのでしょうか。M&Aで儲けようという機関がしかけて、多くの企業が踊らされたようにしか見えませえ。

 

それから10年がたち再び似た様な議論がでています。今度は、環境投資には規模が必要だから、規模を追求するための合従連合を、という論調です。前回もそうでしたが、その意見に反論するのは難しいです。ただ、それを実行したときの弊害をどれだけ真剣に考えたのかとの、チェックは必要です。ある論調が神話化して、一人歩きを始め、誰も疑問を持たなくなり、あとは「赤信号みんなで渡れば怖くない」となっていきます。かつての日本の土地神話もそうでした。ライブドアによるニッポン放送買収騒動の頃、多くの大企業が一斉に買収防衛策を導入しましたが、これも神話に踊らされた例だと思います。冷静に考えれば、そんな経営者を守るルールのある会社の株式は、投資家からすれば投資対象から外すはずで、従って株価は下がるはずです。その後、防衛策を廃止する企業が増えていることがそれを証明しています。

 

話を自動車業界に戻しますが、400万台クラブ騒動の時も独自の道を歩んだホンダは、現在何を考えているのでしょうか。以下のように伊東社長はインタビューに答えています。

 

提携は否定しない。ただ、最も大事にしたいのは提携先で

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はなく、お客様だ。それには絶対にホンダに対する誇りや忠誠心が必要だ。例えば、販売量の拡大を狙い、異なる2社が提携し販売網を相互に活用す

るとしよう。だが、販売店が愛着もない他社の商品を本気で売るだろうか。(中略)偉大なる中小企業を目指す。(中略)この厳しい時代、日本の企業もトップがもっと強い意志を示すべき時が来たと思う。

 


卓見だと思います。妙な神話に惑わされず、自社のあるべき姿を追求する。それがトップの責任だ。こういうトップがいる企業こそ強い企業だと思います。それに比べ、神話に踊らされ右往左往するトップがいかに多いことか。

予期せぬところから探していたものが見つかったときほど、嬉しいものはありません。たまたま古本屋で手にした「やきもの談義」(加藤唐九郎、白洲正子 著 1976年)は、そんな本でした。やきもの談義
白洲 正子 加藤 唐九郎
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加藤唐九郎はもはや伝説的な陶芸家であり、彼と白洲の対談なので、面白そうだとは思いましたが、想像をはるかに超える面白さ。話題がものすごい勢いで広がり、しかもそれぞれが異様に深い。そういう対談です。

 

例えば、加藤が戦略論を語っています。なんと彼は、昭和9年に陸軍参謀部の委員として、「日本戦史」の改訂に関わっているのです。そこで、戦略を学び「それから僕はだいぶ変わっちゃった」そうなのです。

 

戦争というもの、軍隊というものと政治というものと、経済、政治、文化というものは皆同じものであると。それが結局ね、戦争というものは戦術によって勝ち負けが決まるものであると。しかしそれに応えていくように決定するものは、戦略であると。

 

戦術というのは兵器が変わるたびごとに変わる。戦略というものは永久に変わらないものである、政治、経済、文化であると。戦術は軍隊でやっていけるが、戦略とは一般庶民と繋がっていかなければ出来ないものであるというふうに書いておるんです。

 

加藤は、利休を重用したり、美濃を開拓したくさんの窯を開かせたり、楽市楽座を実施したりと、文化・済政策を整え全国統一事業を推し進めた信長を絶賛しています。陶芸家の発言とは思えません。

 

経営戦略でも同じです。「いい製品を作れば売れる」では、単なる戦術です。いい製品が生まれ続けるインフラを、簡単には揺らがないインフラを社内においても、社外においても構築することが戦略だと思います。あらゆるところに強さの基盤となる関係性を築いておくのです。強い企業は、そういうインフラを備えています。

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