経営戦略: 2010年8月アーカイブ

国立能楽堂で狂言の会を観ている時のことです。最後の演目でした。能も狂言も、最後の動きが終わると、静寂がおとずれ、そのまま演者は橋掛かりを静かに歩いて舞台から去ります。この静寂が特徴とも言えます。その日も、最後の動きが終わりました。

 

その時です。正面席後方あたりから、電子音で「オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。・・」と繰り返し聞こえてきました。一瞬、何が起きたのかと、観客全員が思ったことでしょう。確かに、舞台はちょうど終わりを迎えた瞬間でした。

 

一瞬、能楽堂では、終演の合図を流すようになったのかと、頭をよぎりました。しかし、すぐに否定しました。そんなことはあり得ない。そう、一瞬混乱したのです。すぐに、携帯電話のアラーム音だと気づきましたが。

 

もし、電子音がコトバではなく、ブザーみたいな明らかなアラーム音だったら、ここまで混乱せず、「ちぇ、まったく」で済んだように思います。個人的にはダメージは、今回の「オワリノジカンデス」のほうが断然大きかったです。おかげで、せっかく素晴らしかった舞台も、最後の最後で醒めてしまいました。

 

 

 

間接戦略論で有名なリデル・ハートは、「戦略とは、予期せぬ行動によって敵を攪乱し、反撃する力を破壊すること」としています。正面から妨害するよりも、混乱させるほうが、はるかに大きなダメージを与えることができると、今回身をもって実感した次第です。

 

 

公演会場では、携帯電話はマナーモードでなく電源を切りましょう。

今朝の日経朝刊に三菱ケミカルホールディングス小林社長の面白いインタビュー記事がありました。以下、抜粋します。

 

 

今の経営学は企業のやっていることを、後から整理するだけでしょう。何が面白いのですか。後講釈の経営学は要りません。・・・新しい理論を創造する学問の領域があるはずです。いまだに欧米の学説を翻訳しているような学者が多いのではないですか。・・・

 

 

なかなか厳しい指摘です。自然科学をバックグランドに持つ小林社長だから、余計そう感じるのでしょう。

 

経営学はそもそも真理を追究するわけではないので、仕方ない面もあると思います。しかし、いまだにヨコをタテにして生きているのであれば情けないですね。

 

これを読んで思ったのは、文学評論家と作家の違いです。評論家は過去と現在の膨大な情報に基づいてある種の創造をします。一方、作家は言うまでもありませんが、情報もなにもない未来に向けて創造します。役割も前提も大きく異なります。たぶん評論家は、分析に基づく創造力が、作家は直感に基づく創造力が必要なのです。優れた評論家でも、作家にはなれないでしょう。そのまた逆も、です。

 

経営学者は文学評論家であり、経営者は作家なのです。読者は、自分の立場や期待によって、評論を読みたい人もいれば小説を読みたい人もいるでしょう。ようは、読者が選択すればいいのです。

 

作家である小林社長は、文学評論に何を求めているのでしょうか?新しい小説のネタでしょうか?執筆のための新しい方法論でしょうか?いえ、きっと小説を構想する際に刺激となるような、何らかのシャープな「インスピレーション」なのだと思います。毎日こもって執筆三昧の作家には思いつかないような斬新な・・。

 

小林秀雄や加藤周一の名前を出すまでもなく、一流の評論家は一流の創造者です。創造性溢れた後講釈をするのです。そういう評論家、つまり(日本人)経営学者を私も待望します。

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