これまで経営戦略は、競争戦略と同義で扱われてきたと思いますが、最近どうも違和感を持っています。
そもそも競争戦略論は80年代に、HBSのマイケル・ポーター教授の「競争の戦略」から世の中に広まった言葉です。その本では、低成長にあえぐ米企業が、限られた市場の中で競合に対して強みを発揮しシェア拡大するための戦略を分析しています。隠れた前提は、市場が成熟しておりビジネスモデルの独自性余地は小さく競合とは同じ土俵で戦い、競合を市場から退場させることを最終目的とする、です。まさに伝統的な戦争のアナロジーです。80年代国内オートバイ市場におけるホンダとヤマハの競争などはそうだったのかもしれません。
でも現在では、これが競争だという事業が思い浮かびません。例えば、アップルとサムソンは、スマートフォンやタブレット端末の特許で対立していますが、iPhoneのデバイスにはサムソン製が多数使われています。また、トヨタは虎の子のHV技術を、日産をはじめ多くの競合メーカーに提供しています。そこには、上記のような前提はありません。それは戦略ではなく戦術だとの反論もありそうですが、戦略と戦術の峻別は無意味です。
では、現在の企業の経営戦略とは、どのような原則、前提に基づいているのでしょうか。
フランスの軍人戦略家ボーフルは、著書『戦略入門』(1963年)の中でこう書いています。
『勝利』という概念は、敵対する者との関係ではなく、自分自身が持つ価値体系との関係で意味を持つ。このような『勝利』は、交渉や相互譲歩、さらにはお互いに不利益となる行動を回避することによって実現できる。
決して相手をせん滅することが「勝利」ではなく、あくまで「自身の」(「世間の」ではなく)価値体系の中で争点を定め、その争点において自分の目的を達成することこそが「勝利」だと定義しているわけです。これは、近年の経営戦略の本質を喝破しているように思えます。
こういった戦略のパラダイムの変化は、人の生き方のパラダイム変化をも反映しているように感じます。つまり目指すべきゴールは、他人が決めた物差しに従って決めるのではなく、自分自身の価値観のもとで自らが決める。相対的な勝利ではなく絶対的な勝利。ただし、それは容易なことではありません。数年前に、「No.1よりもOnly1」というフレーズが流行りましたが、どこか現実逃避のにおいがしました。競争に疲れ、自分さえ満足していればそれでいいんだ、という甘え。
厳しい自己規律のうえでのOnly1(本人はOnlyにはこだわっていないはすですが)は生易しいものではなく、多くの挫折や苦悩を経てはじめて到達できる境地です。芸術家を見ていればよくわかります。果たして現在の日本の個人や企業、政府がそうした葛藤を乗り越えて独自の戦略を描けるかどうか。
ルース・ベネディクトは『菊と刀』で、日本人社会の特徴として、人間の評価は「何を行うか」ではなく、「各々いかなるところを得ているか」でなされる、と書いています。そういう文化をどこかで変えなければ、勝利はまだまだかもしれません。
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