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2019年 新年のご挨拶

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謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年注目された言葉の中で、私が最も印象深かったのは、ノーベル賞を受賞した本庶佑特別教授の「教科書を信じないこと」でした。あらゆる権威や常識に疑問を持ち、自分の目で納得する姿勢を大切にすべきとのメッセージだと理解しました。


2019年は、あらためて「学習能力」の開発について突き詰めていきたいと考えています。

ご存知の通りテクノロジーの進化はますます加速し、急速にビジネス環境を変えています。
しかし、いくらテクノロジーが進化しても、それを使いこなすべきヒトの適応力が追いついていかなければ、社会がその成果を享受することはできません。

残念ながら日本は、テクノロジー進化以上にその点で遅れをとっているようにみえます。そして、それを克服する鍵は学習能力だと思うのです。

学習とは、「外部からの刺激を受容して、それに意味を見出し(解釈)、目的に合致するように自分の思考や行動を柔軟に変えていくこと」だと私は定義しています。外部からの刺激にはいわゆる知識も含まれますが、それだけではありません。舞台を観たり、星空を眺めることなども貴重な刺激です。

そういった学習を妨げる主な原因は受容や解釈にあり、例えば「教科書」に書かれた常識や思い込みに囚われたり、曖昧で不安な状況に耐えきれないことだと感じています。しかし、自分自身ではなかなかそれらに気づかないものです。だから他者、しかもできるだけ自分とは異なる他者との「対話」が必要なのです。(我々日本人は、本当に対話が苦手です。)


今年も社会の変化は加速することでしょう。それゆえ、個人や組織の学習能力開発の重要性は、ますます高まっていきます。そういった分野で有効なサポートができるよう、まずは私自身の学習能力向上に努めて参りたいと思います。


本年も引き続きご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます


2019年1月7日


株式会社アダット
代表取締役社長 福澤 英弘

遊びを遊ぶ

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9/10の朝日新聞朝刊「折々の言葉」にこうありました。

 

(前略)昔の児戯には二つの特徴があった。自然を相手に「ゆっくりと、のびやかに」遊ぶこと。勝ち負けを競うものではないこと。遊びは「合理性を拒否する」ものなのに、余暇として計画したりすれば、遊びを再び合理性の中に閉じ込めることになる(後略)(安田武「遊びの論」から)

 

今の子供がどうなのかは知りませんが、大人についても言えることなのかもしれません。

 

先日、文楽のある三味線弾きの方に伺ったのですが、最近の太夫は以前の太夫に比べて少しでも上を目指そうという意識が欠けているそうで、それは自分が「できている」と思い込んでいるからなのだとか。文楽という狭い世界にいるとどうしても視野が狭くなり、自分の非力さが感じられなくなってしまうともおっしゃっていました。

 

その方の趣味は登山です。山という大自然の中では、人間は非力でちっぽけな存在。それを実感できることが、芸の助けになっているそうです。

 

仕事は、最終的には成果で評価されます。勝ち負けや損得から逃れることは難しいでしょう。大人にとっての遊びとは、意識せずともそれの解毒剤なのかもしれません。そうしてバランスをとっている。

 

将棋や囲碁、あるいは麻雀、競馬競輪といった「遊び」は勝ち負けがはっきりし、損得も明快です。面白いのかもしれませんが、私はどうも魅力をあまり感じないのは、漠然と遊びに勝ち負けの要素を入れたくないと思っているからなのかもしれません。

 

他者に挑む遊びよりも、自分と対峙する遊びの方が好きです。例えば習っている謡と仕舞は、あくまで自分の上達が目標で、過去の自分より一歩でも成長が感じられたらそれで嬉しい。美術作品や舞台を観るのも、作家と対峙するなんて大それたことは考えません。あくまで、自分がどう感じるかを楽しむのです。

 

ただ、「保有」という概念が加わると、少し趣が変わる気がします。骨董を買うということから、値段を納得するプロセスを排除することはできません。そうすると、どうしても勝ち負け、損得の要素が混じります。

 

私の場合は投資の観点はほぼないので、いくらで売れるからとは考えませんが、自分にとっての価値を判断する必要があります。自分自身の「美意識」を、そのモノの値段という尺度に変換することを強いられるわけです。こんなに美しいモノだから、これだけの値段は適切だろう、と。その際に比較対照するものはほとんどないですし、あってもあまり役に立ちません。世間の評価や相場のようなものもありますが、世間と私の美意識は異なってしかるべきです。こうなると、どれだけ自分を信じられるかであり、結局自分自身との対峙ということになります。損得の要素も多少加味しながらではありますが、合理性で測ったらとても買うことなどできません。合理性と親和性の高い機能性は限りなくゼロ。複雑です。(昔の経営者に骨董の蒐集家が多かったのは、骨董も経営もどちらも最後は「美意識」によって判断するものだったからなのかもしれません)

 

「遊びを」合理性の中に閉じ込めてはいけない、というのもよくわかります。パック旅行は観光ではあっても「遊び」ではありません。「遊び」にとって偶然性は必要条件だからです。偶然性や不確実性を楽しみ、そこに合理性より大きな価値を見出すことが「遊び」なのだと思います。

 

世間的には役に立たないこと、合理的ではないことにうつつを抜かすということは、とても人間的なことでありAIには絶対真似できない。そういえば、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という言葉がありました。人間は、遊ぶから人間なのだともいえます。マクロでいえば、日本はプライオリティを「生産すること・貯めること」から「遊ぶこと・費うこと」に変換する時期なのだと思います。「どう稼ぐか」よりも「どう(お金と時間を)費うか」に、人間が現れる時代なのです。

2017年新年のご挨拶

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(1/4にメール発信した新年のご挨拶です。少々遅くなりましたがアップしておきます。)

謹んで新年のお慶びを申し上げます。


2016年を振り返ると、いよいよ不確実性が常態化してきたと実感せざるをえません。一年前に、誰が英国がEUを離脱すると、誰がトランプ氏が米国大統領に就任すると予測したでしょうか。

こんな時代、何を拠りどころにしたらいいのでしょう。

私はあえて、Authenticity にこだわりたいと思っています。
Authenticityとは、「本物であること」という意味ですが、オックスフォード英語辞典によると、「その起源に議論の余地もないこと」とあります。

私の解釈ですが、Authenticityとは歴史に裏付けられたストーリーと、それに由来するどっしりした基軸を根底に持っている人やモノだと思います。

まずは、自分にとっての「Authenticity」とは何かを見つめ直す必要があります。

さらには、他の人あるいは組織を「Authenticity」たらしめているものを見定め、それに敬意を払うことができるようになりたい。


Authenticityの代表ともいえる、マザー・テレサの言葉です。

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits; for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


2017年、「本物」にふさわしい思考をしていきたいと思います。


本年も引き続きご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

福澤英弘

カナユニが閉店

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赤坂見附のレストラン「カナユニ」が、今月26日で閉店だそうです。私にとって大切なお店でした。

 

開店は50年前の1966年。今も店に立つマスターの横田さんが、26歳で始めたそうです。私が初めていったのは、大学生だった1980年代半ば頃、もう30年にもなります。通っていた大学が四谷だったので、赤坂見附は裏庭のような感覚でした。当時、赤坂見附の飲食店でアルバイトをしたいと思いたち、どの店にしようか何軒かに入ってみました。バイトしたいと探したのは、「大人が楽しむ本物のお店」。今思えば、ずいぶん無茶でえらそーな行動です。

 

そんな中に、カナユニがありました。重々しい鉄の扉を開けて、地下に降りていくとき、少々緊張したことを覚えています。ジャズの生演奏が流れる薄暗い店内は、まるで映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガード演ずるリックが経営するリックス・カフェ・アメリカのようだと感激。お店の方々も、皆さんカッコよく、しかも私のような一見の小僧にも丁重に応対してくださる。なんて、大人でかっこいいお店なんだろうと思いました。

 

では、カナユニでバイトしたのか?それが、できませんでした。悲しいかな、こんな素敵な店で働く自分をイメージできず、気後れしてお願いすらできなかったのです・・・。今思えば、ずいぶん勿体ない。(結局、ホテル・ニューオータニの一階、清水谷公園向いの「リトル・パイレーツ」でバイトしました。)

 

しかし、その後も大切な店として、折々に伺いました。例えば、あれは私が就職して2,3年後でしたか、名古屋に住む姉が結婚したばかりの夫(義兄)と職場の友人数人とで東京に遊びにきたとき、張り切って夜カナユニに連れていきました。ただ、残念ながら予約していなかったため満席で入れず。しかし、マスターの横田さんは申し訳ないと、「近くの喫茶店で待っていてください。席が空いたらお呼びします」と言って下さったのです。コーヒー代まで出してくださいました。私が初めて「おもてなし」を実感した瞬間だったかもしれません。

 

初めて本当のサングリアを飲んだのもカナユニでした。フロアの浅見さんは、いつでも楽しく応対してくださいました。驚くことに、お店の主要なメンバーは、30年前に初めていったときと同じです。浅見さんの髪はいつの間にか、グレーヘアに変わっていましたが(そう言う私の髪もですが)。お店の人たちの人柄と入れ物としての空間が融合、熟成したオーセンティックなレストラン。

 

まだまだ、大切な記憶がたくさんありますが、このくらいにしておきます。またひとつ、プロが営む宝物のようなお店がなくなってしまう。残すべきものと無くすべきものが、どうも違っているのではないかと、切なく思うのです。カナユニの皆さん、ありがとうございました。50年間ご苦労様でした。


(1966年にマスターが26歳で始めたということは、私が初めて店でマスターにお会いしたときマスターは40代半ば。今の私よりずっと年下。あー、情けない・・・)


(写真は、日経レストラン2011年6月9日から引用しました。3.11の夜のいい話載ってます。)

20110609_01.jpg

新年明けましておめでとうございます。

 

本日が仕事始めの方がいいでしょうね。私も今日から出社しています。

 

会社としての「新年のご挨拶」は、ここ数年メールの一斉送信で行っています。しかし、今年はいつ送信するか迷いました。例年ですと、三が日開けの4日に送信することが多かったのですが、今年は開けの平日は今日6日です。

 

年賀葉書であれば年末に投函しても、読んでいただけるのは出社した日です。つまり相手次第なので、発信日はあまりに年末ぎりぎりでなければ気にする必要はありませんでした。

 

しかし、年賀メールであれば、相手によっては送信と同時に読むことでしょう。スマホで簡単に読めますから。

 

では、元旦に送信すればいいかというと、そうでもなさそうです。元旦の送信自体は容易ですが、正月休み中に「会社」としてのメールを読ませてしまうのは、無粋な気がしたのです。だって、正月休みに誰もそれほど重要でないビジネス関連メールなど読みたくはないでしょう。でも、個人的なメールログに混じってしまうと、つい読んでしまいそうです。

 

かといって、6日に送信するのは、正月三が日から三日も経っており、不誠実な気がしないでもない・・・。

 

迷いましたが、結局6日(今朝)8時に送信しました。やはり仕事始めに送信し、読んでいただくのがまっとうな気がしたからです。送信するまで時間がたっぷりあったので、文章をじっくり推敲することができました。(正月休み中、時々ふと文章の直しが思い浮かんでしまい、自分が一番無粋でした)

 

葉書からメールに代わることによって、明らかに便利になりました。葉書の年賀状に手書きでコメントを書かれる方もいらっしゃいますが、ほとんどは宛名もコメントも印刷です。であれば、電子媒体でもあまり変わりない。

 

ただ、タイミングだけは大きく異なります。それに関する「常識的ルール」はまだ確立されていない。技術や環境が変わったのだから、一人ひとりが自分の頭で考えるしかない。

 

年賀メールという些細なことで頭を悩ませてしまいましたが、実はこれに似たことは日々起きているのではないでしょうか。

 

過去の繰り返しであれば、頭を使わなくて済むのですが、どうやらそうもいかなくなってきた。でも、自分の頭でじっくり考えるのは面倒だ。誰かいい方針を示してくれないか。それに従うから。

 

こんな風潮が世の中に溢れているとしたら怖いですね。

 

今年も安易な思考停止や思考依存しないよう、良い意味でクリティカルなものの見方をしていきたいと思います。本当はそのほうが、ずっと落ち着いていられるに違いありません。

年末年始のお休みには、できるだけ歴史に関する本を読むようにしました。「中国化する日本」「文明」「平成史」などです。歴史を知ることによって、現在起きている現象の意味や本質の理解、将来の予測などに役立つと期待したからです。

 

年末の総選挙に代表されるように、近年目先の現象面だけを捉えて右往左往する世論に、政治家も官僚もマスコミに追随しているように思えます。民意はもちろん大事ですが、世論調査で果して本当の民意を把握することができるのでしょうか。できないからこそ、政治家や文化人が必要とされるはずです。残念ながら流通する情報量が増えれば増えるほど、短期志向に陥るのは人間の性に違いありませんから。もっといけば、英雄待望論が高まりポピュリズムへ走ります。従って、よりいっそう政治家の役割の重要性は高まっているはずですが、現実は逆に行っているようです。

 

ところで、成人の日(1/14)の朝日新聞「天声人語」にこう書かれていました。

 

大人になるということは歴史と出会うこと。歴史に出会うということは社会を見出すことでもある。(中略)過去を感じ直し、現在を位置づけ直し、未来を選び直す。自分がどんな歴史に織り込まれているのかを問う営みだという。

 

新成人に向けての言葉ですが、もちろん我々「大人」にも100%いえる言葉です。「大人」とは、年齢を表す言葉ではなく、「思考の厚み」のようなものを持つ人を指すのだと考えます。それは必ずしも歴史知識の量をどれだけ持つかということではありません。

 

今朝、まだ雪がたくさん残る危ない道路を普段よりゆっくり走るバスの中で、私のすぐ近くに初老の母と知的障害を持つ息子が坐っていました。その女性は息子にこう語りかけていました。

 

「普段はバスはすぐ来るし、すいすい走っているよね。でも、今日みたいな日があるから、普段快適にバスに乗られることの有難みがわかるね。感謝しなきゃね」

 

自分のそれまでの歴史に照らして自分自身に言い聞かせているようにも聞こえました。「思考の厚み」は、そんなところにも垣間見えます。個人のレベルであっても、日本や世界のレベルであっても、歴史は同じように意味を持ちます。

 

今年は、歴史を踏まえて思考を厚くする努力を、地道に続けていきたいと思います。

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史
與那覇 潤
4163746900
文明: 西洋が覇権をとれた6つの真因
ニーアル・ファーガソン 仙名紀
4326248408
平成史 (河出ブックス)
小熊 英二 貴戸 理恵 菅原 琢 中澤 秀雄 仁平 典宏 濱野 智史
4309624502

時間の流れ

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時間は誰に対しても同じように過ぎてゆくものなのでしょうか。近頃は、アンチエージングだの、50代でも30代に見える医者のハウツー本だのが流行っているようです。一般に人は時間の流れを自分だけは遅くしたいと考えるもののようです。

 

先日、大学時代の後輩(女性)二人と大学時代以来で再会しました。四半世紀以上は経っていますが、会ったとき全く違和感を抱きませんでした。約25年の時間がすっぽり欠落したような感じで、話すうちにどんどんその感を強くしました。25年?、なんだそれ?

 

Mさんは見た目もほとんど変わっておらず、前日に大学三年生の娘さんをフランス留学に送り出したばかりとのことでしたが、とてもそうは見えません。変わったのは、化粧をするようになったことくらいでしょうか。


Fさんも表情は全く変わっていませんでしたが、学生時代にはなかった皺が目元に数本目にはいりました。そして驚いたことに、その皺がとても素敵なのです。昔から、外国映画に出てくる妙齢の女優さんの皺はなんて美しいんだろうと思っていましたが、まさにそれなのです。「人生を感じさせる」というとかなり言い過ぎですが、「良い齢を重ねてきた」証とはいえそうでした。会っているときには、その印象を口にはできませんでした。うまく表現できそうもなかったので。同世代の人にそれを発見したことは、ちょっとした感動でした。Fさんは、海外生活が長く今は在米15年になるそうです。それが関係あるかどうかはわかりません。

 

二人とも学生時代、何事に対しても真っ直ぐに向かい合うタイプでしたが、その姿勢はそのままに様々な困難にも立ち向かってきたのだろうと想像できました。その結果、二人ともきっといろいろあったんだろうけど、でもとてもいい齢の取り方をしているようです。人間にとって熟成の時間は必要不可欠のものだと実感しました。

 

彼女たちとカフェで楽しい時間を過ごした後夕方から、昨年大晦日に50代半ばという若さで亡くなった私の謡の先生を偲ぶ会に参加しました。弟子の一人の方が、稽古時には毎回ビデオカメラをまわしていました。復習用だそうですが、ほとんど観返したことはないそうです。それが、こんな形で稽古仲間と一緒に見ることになったわけです。

 

最初の映像は2006年でした。ほんの6年前の先生の姿でしたが、ものすごく若々しく見えました。穏やかなお人柄と、我々不肖の弟子が少しでも上達するようにとの熱心で真摯な指導が甦ってきます。

 

先生は2010年頃からALSという難病と戦っておられました。昨年初め頃からは、帯を締める力も入らず、声も以前のように張り上げることもできず、毎回稽古に行くたびに痩せていくようでした。でも、弟子が望むならばできるだけ稽古をつけたいと代講はさせませんでした。それが生きる張りだったそうです。実際昨年の夏くらいまでは教えていただきました。そして、大晦日に亡くなったのです。

 

直近の記憶とは異なる、たった6年前の溌剌としたお姿。ある意味映像は残酷です。短い時間の中で人間が衰えゆく経過を、なまなましく私たちに突きつけるのですから。しかし、先生にとってこの6年が短かったのか、そうではなかったのか、それは先生以外誰も知りえません。

 

欠落したように感ずる時間も、熟成を感じさせた四半世紀の時間も、死に向かう6年の時間も、物理的には同じスケールで測られる時間です。でもとても同じ時間とは思えません。時間に抗うのでもなく無為に流されるのでもなく、時間に意味を与えるのは自分自身の意識とそれに沿った生き方次第なのだと思います。

日本中、至るところで絆が広がっています。こんなところにも・・・。


震災後、なんとなく飲み屋から足が遠のいていましたが、昨晩久しぶりに西荻窪の居酒屋「野人料理 風神亭」にいきました。帰り際、壁に幼い字で書かれた手紙が一枚貼られており、何かと思い読んでみました。最初には、「東京のいざかやさんへ」とあります。とても丁寧な文字で綴られています。(一緒にいた妻に言わせれば、私の字よりはるかにうまい)

 

どうやら、お店の人たちが避難所に出向き炊き出しをした、そのお礼の手紙のようでした。

 

お店のブログから転記します。

 

「東京のいざかやさんへ そばめしとけんちんじるあたたかくて、とってもとってもおいしかったです。じしんの時ガラスがバリバリわれて、そしてすぐにはい色の水がごみといっしょにながれてきました。家の中にも水が入って来て、しぬかと思いました。でんきも水も食ものもないけいけんは、はじめてでこわかったです。でもいろんな国や日本中の人たちから、たくさんたすけてもらっていることがわかりとってもうれしくなりました。今日食べたそばめしと、けんちんじるのあじはわすれません。ありがとうございました。貞山小学校二年一組 宮嶋亜美」

 

帰り際にこれを読み、お酒も多少回っていましたが、とても温かい気持ちになりました。

 

 

あとで 店のブログを見てみると、そには、社長の熱い想いが書かれていました。一言でいえば強烈な喜びです。そちらも転記します。

 

材料全て無くなり、虚脱感に包まれて一服をしているときに、とても可愛い少女とその母親がやって来て、「本当にご馳走様でした。ありがとうございました。」と礼を言われた。その少女は体育館で手紙を書いてくれていた。(中略)

 

長い人生を生きてきて嬉しかったことも何度もあったが、これほど嬉しかったことは初めてだった。無位無冠を認じていたが立派な勲章持ちになった。たかがしれた金。たかがしれた疲れ。そんな私事(わたくしごと)の全てを吹き飛ばす喜び。物を作って人に喜んでもらうことのできる喜び。物を作ってさえいれば、飛ぶ鳥の様に、海賊の様に、自由だと感じている。物を作っていると楽しくなる。楽しんでいる光源となるからそれが人に映り、楽しみが移る。地震も津波も原発も、そして人の生き死にさえも忘れて物作りに没頭する。それが飲み屋風情のできることと確認をし、満足をする。

 風神亭という私の人生そのものの物を作る場としての飲み屋。その存在意義を幼い字で一生懸命書いてくれた少女からの一枚の手紙が答えてくれた。「ずっとやっててね」と許してくれた気がしている。これで平常に戻れる。物を作り、つまらぬことを書いて、細く永く支援を続け、10年か20年後の今の若い子達が大人になった頃の今よりもはるかに良い国となっているだろう日本、を夢見て暮らしてゆくことに決めた。

 

 

よく、励ますほうが励まされたという話を聞きますが、こういうことなのですね。こういう心のやりとりが、今至るところで行われているのでしょう。うらやましいと思います。

その日は朝から気持ちのいい快晴で、天気予報も一日じゅう晴れとのことだった。朝からオフィスで一人仕事していたが、13時半頃昼食を取っていないことに気づき、近所に最近できたセルフの讃岐うどん屋へいった。帰り道、さっきまであんなにいい天気だったのに、今はどんよりした雲が広がり暗くなってきたことに不自然さを感じた。夏の夕立前ならともかく、冬に突然大きな雲が発生し空を覆うことは珍しい。オフィスに戻り、早速天気予報サイトを確かめてみたが、やはり一日快晴を示していた。何か変だ。

 

1445頃、少し揺れを感じた。最近地震は珍しくもないので、あまり気にもせず仕事を続けた。しかし、何か違う。普段なら数秒で揺れはおさまるのに、その時は次第に横揺れが大きくなってきた。ぎしぎしとビルがしなるような音もしはじめた。とっさに、デスクの上の携帯電話を手にとり、クローゼットから上着(ジャケット)だけを持ち、外階段を駆け降りた。(11階中の)3階なのですぐに降りられたが、途中でキーキーと不気味に啼きながら飛び立つ鳥の群れが目に入った。

 

前の道路に出ると、すでに何人かの人々が恐ろしそうに、揺れるビルを見ながら口ぐちに何か声をあげていた。私は、100mほど先にある新宿御苑の大木戸口に向かった。地盤の緩い沼地にある泥の地面のように、足元の地面がゆさゆさと揺れた。わずかな距離だったが、目の前にある複数のビルがこちらに倒れてくるのではないかと不安で、とても長い時間のように感じた。途中にある大きなイタリアンレストランから、大勢のお客さんと店員が一斉に道に出てきて、入っているビルを見上げていた。不謹慎ながら(怪獣が襲ってくる)映画のシーンのようだと思った。この後、食事に戻れるのだろうか。

 

大木戸口の前には広いスペースがある。そこには、既に近隣のビルから避難してきた人々が2,30人はいたが、続々とその数は増えた。しばらくして揺れは収まってきたように感じた。その時点では、そこには100人近く集まっていた。1453、日本橋の会社にいるはずの妻に携帯で電話したがつながらなかった。電波は混雑しているのだろう。1459、携帯メールを送信した。

 

そろそろ、オフィスに戻ろうかと道路に向かい始めた時、再び大きな揺れが襲ってきた。(1515発生の茨木県沖を震源とするM7.4の地震と思われる)向こうに見えるいくつかのビルが大きく揺れている。そのまま倒れてくるのではないかと思ったほどだ。しばらくそこに留まることにした。

 

 その後、新宿御苑が解放されたので、周囲の群れとともに園中へ移動した。その頃にはまた快晴に戻っており、不自然に明るく大きな空と午後の温かい日差しで、ジャケットだけでも寒さは感じなかった。これだけ多くのビジネスマンで満たされた御苑は、当然のことだが初めてだった。職場単位で避難してきた人々も多く、中には点呼をしている集団もいたのが、なぜかほほ笑ましかった。しかし、その間も大きな余震はひっきりなしに続いた。

 

その頃だろうか、妻から「地震大丈夫?」とのメールが届いた。送信時間は1511だったが、届いた時間はたぶん16時は過ぎていただろう。でも、とにかく安心した。芝生に座っていた若い営業マン風の男性が、同僚とだろうか携帯で話している声が耳に入った。「3時のアポだったのだが、地震のせいで遅れて客先に着いた。でも、それどころじゃない、早く帰れ!といわれてしまった。さすがに、これからのアポはキャンセルしても問題ないよね」なんとも律義な営業マンである。

 

しばらくして、だいぶ揺れも収まってきたので、オフィスに戻ることにした。御苑からオフィスに向かう道で、知り合いらしき人を見かけたが、声はかけなかった。なんとなく、余裕がなかったのだろう。オフィスに戻ると、本棚から大量の本が落ちていた。また、本棚の上に置いていた置時計も床に落ち止まっていた。時間は。353を指していた。幸い、他には大した被害はなかった。

 

いつまた大きな揺れが襲ってくるかわからない。つけっぱなしだったエアコンを止め、PCを入れたバッグとコートを手に慌てて再びオフィスを離れ新宿御苑に向かった。なぜかその頃には再びどんよりした天気となっていたので、置いていた傘も持っていった。その頃には、大木戸口から出てくる人の大きな流れができており、流れに逆らって御苑の中に入った。その時、ぽつぽつとわずかに雨が落ちてきた。

 

園内放送では、地震の概要と都内の交通機関が全面ストップしていることを繰り返し告げていた。さらに、「大きな木や建物には近づかないように」と注意を促していた。子供の頃、地震が起きたら根のはった大きな木の下に逃げろと教わっていたことを思い出し、御苑には大木がたくさんあるが、どれも根は深く広く張っていないのだろうか、それとも時代によって避難方法は変わるものなのかと、変に考えてしまった。ノートPCをネット接続して、交通機関の運行状況を調べたりしたが、やはりどこも運休。これは、以前から警告されていた「帰宅難民」が発生するのか・・・。

 

日も暮れかかって、寒くなってきた。幸い先ほどの雨雲は消え、再び晴天になっていた。本当におかしな天気である。御苑の避難者はだいぶ減っていた。通常、御苑の閉園時間は16時半。すでに閉園時間はとうに過ぎていたが、さすがに締め出しはしない。でも、そのままいても仕方ないので、再度オフィスに戻ることにした。

 

大通りの様子を確認しようと、新宿通りに回ってみた。すでに、歩いて家路に急ぐビジネスパーソンらしき姿もちらほらとみえた。建物などに、特に異常はない。割れた窓ガラスなどもなさそうだった。

 

オフィスに戻ったものの、余震はひっきりなしにくる。外にすぐ避難できるよう玄関扉を少し開けておき、そのすぐそばにバッグを置いた。2,3回は実際に一階に駆け下り建物の外にでた。玄関に走ったのはその倍以上だったろう。この建物は昭和50年代築なので、大した耐震構造とは思えず不安だったのだ。とはいえ、公共交通機関はすべて動いていない。ただ、歩いて帰ろうとは考えなかった。それなら、一晩ぐらいオフィスに泊まろうと思ったのだ。ただ、こういう時に限って携帯のバッテリーが切れそうになる。これから何が起こるか分からないので、バッテリー切れはとても不安だった。

 

2036、実家の母から携帯に電話が入った。バッテリーが心配だったので、すぐに固定電話からかけ直す。やっと電話が通じたという。東京への電話が集中していたのだろう。無事であることを告げた。相変わらず、妻との連絡をタイムリーに取ることはできなかった。


すぐ外の狭い道路は、普段交通量は少ない。その地下を甲州街道がトンネルで走っているからだ。しかし、窓から見下ろすと大渋滞だ。消防車もいたが、ほとんど進まない。道路わきに地下トンネルに排気口が側溝のようにある。毎日暗くなると、どこからかホームレスのおじさんが現れ、排気口の上に器用にブルーシートで覆われた段ボールハウスを組み立ててねぐらにしている。きっと下から上がってくる排気は温かく床暖房のようなものなんだろう。そして、今日もいつものように組み立てて入った。そのすぐ横には、大渋滞の車の列。人々は何とか家にたどり着きたいと、大渋滞覚悟で車に乗る。そのすぐ横に、ホームレスの我が家。これも不思議な光景だ。その時ふと、段ボールハウスづくりの技術は、震災などの避難所できっと役に立つだろうとひらめいた。じっさいここ数日、TVで見る体育館などの避難所に、段ボールハウスっぽい間仕切りが急に目につくようになった。

 

ネットでニュースを何度も確認していたが、USTREAMNHKを同時中継していることを知り、ずっと観続けた。これは便利だ。でも、NHK受信料はどうなるんだろうかと、一瞬頭をよぎる。家々をなぎ倒して淡々と進軍する津波や気仙沼の街を覆い尽くす大火災の映像で、初めてことの重大性を認識したように思う。


昼からの天気の不自然な変化が気になり、ネットで調べてみると地震雲という現象を発見。地震前には電磁波が高まり、それが雲を生成させるという説があるそうだ。妙に納得。

 

21時過ぎに、食糧を調達しようと思い立ち、近くにコンビニに向かった。その頃は、徒歩で帰宅する人々で新宿通りはいっぱいだった。コンビニのトイレにも長い列が出来ていた。当然のように店にはほとんどすぐお腹を満たすような食品はなくなっていた。パンやおにぎりはともかく、カップ麺もなくなっていた。仕方ないので、ポテトチップス、柿の種、カップスープとビールを買った。さらに、エアコンが使えなくなり寒くなるといやだなと思い、サントリー角瓶(小)も買うことにした。これじゃあ、ちょっとした遠足気分だ。

 

引き続きUSTREAMNHKニュースを観ながら、ポテチでビール。適宜、交通情報を確認していたが、21時過ぎだろうか、JR東日本は早々に本日の全面運休を宣言。おいおい、ちょっと早いんじゃないと残念に思う。それ以外の鉄道会社はきっと少しでも早い運行のために必死で作業しているだろうに。企業の姿勢はこういう時に垣間見える。23時ごろ地下鉄丸ノ内線が運転とあった。すぐは混雑するだろうと思い少し待ち、24時ごろ新宿御苑駅に向かった。しかし、運行は始めたものの本数は少なく大変混雑しており、ここから乗り込むことは難しいと、駅員は言った。しばらくして電車は到着したものの、確かに大混雑。めげてオフィスに戻った。今晩はやはり泊まろうと決めた。

 

うとうととしていたところ、携帯のメールが鳴った。妻からで、「都営新宿線と京王線は各停のみだが動き出したらしい。もう少ししたら、富士見ヶ丘経由で帰ろうと思う。そっちの状況は?」発信時間は2302だったが、届いたのは2時前くらいだった。夜の母からの電話で、妻は会社近くのホテルだか宿舎?に泊まると聞いていたので、ちょっと意外だった。(母は、妻の実家からそう聞いたとのことだが定かでない)156に返信したが、反応はない。妻が帰宅したのなら自分も帰ろうと思いなおし、再び新宿御苑駅に向かった。途中歩きながら電話しようと思ったらついにバッテリーが切れた。

 

新宿御苑駅駅員の反応は前回と同様で、難しそう。諦めて新宿三丁目駅まで歩き、そこから妻と同じように都営線、京王線経由で帰ろうと考えた。駅の公衆電話から自宅に電話してみたところ、やはり妻は帰宅していた。この前に公衆電話を使ったのはいつだっただろうかと思った。

 

新宿三丁目の都営線駅で電車を30分くらい待ったものの、来ない。駅員に尋ねると後20分くらいは来ないとのこと。最初着いた時に尋ねたら、15分くらいで来ると言っていたのに。でも、腹も立たなかった。駅員はこんな先が読めない状況でも一所懸命に対応してくれていることが分かったからだろう。そのまま地下道でつながっている丸の内線の新宿三丁目駅に向かった。駅員に尋ねると、次の電車は今霞が関駅に到着しているとのこと。ならば15分後くらいには来るだろう。混雑状態を尋ねると、それほどでもないとのこと。なんだ、ならば新宿御苑駅から乗れば良かったと思ったが、やはりそれほど腹も立たず。予定通り電車は到着。やはりそれほど混んでいない。しかも隣の新宿駅で座れ、順調に荻窪駅到着。着いた頃にはお腹が空いていると感じ、駅前で牛丼を食べた。3時近いのに、なぜか女性客が多いのが意外。予想に反してタクシー待ちの列もなく、そこからすぐタクシーで帰宅。こうして、長い一日は終わった。

今年のゴールデンウィークは、ずっと暖かいお天気が続き、快適そのものです。朝は、窓の外、上空から聞こえてくるうぐいすのさえずりで目覚めます。「ホー、ホケッキョキョー」と一所懸命に鳴いています。きれいに「ホーオ、ホケキョ」とは鳴けません。まだ若鳥なのでしょう。

 

若鳥は、親鳥から教育してもらえなければ鳴けないと、以前本で読みました。鳥は、犬や猫と違って、親の教育により一人前に鳴くことができるようになる、学習者なのです。人と同じです。

 

夏まっ盛りになれば、このうぐいすも立派なさえずりをあたり一面にとどろかすことでしょう。日に日に大きくなるタンポポの黄色い花や唐松の新葉、今年も発揮しつつある自然界の成長力を、自らの中にも取り込みたいと願ってみます。

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