時間の流れ

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時間は誰に対しても同じように過ぎてゆくものなのでしょうか。近頃は、アンチエージングだの、50代でも30代に見える医者のハウツー本だのが流行っているようです。一般に人は時間の流れを自分だけは遅くしたいと考えるもののようです。

 

先日、大学時代の後輩(女性)二人と大学時代以来で再会しました。四半世紀以上は経っていますが、会ったとき全く違和感を抱きませんでした。約25年の時間がすっぽり欠落したような感じで、話すうちにどんどんその感を強くしました。25年?、なんだそれ?

 

Mさんは見た目もほとんど変わっておらず、前日に大学三年生の娘さんをフランス留学に送り出したばかりとのことでしたが、とてもそうは見えません。変わったのは、化粧をするようになったことくらいでしょうか。


Fさんも表情は全く変わっていませんでしたが、学生時代にはなかった皺が目元に数本目にはいりました。そして驚いたことに、その皺がとても素敵なのです。昔から、外国映画に出てくる妙齢の女優さんの皺はなんて美しいんだろうと思っていましたが、まさにそれなのです。「人生を感じさせる」というとかなり言い過ぎですが、「良い齢を重ねてきた」証とはいえそうでした。会っているときには、その印象を口にはできませんでした。うまく表現できそうもなかったので。同世代の人にそれを発見したことは、ちょっとした感動でした。Fさんは、海外生活が長く今は在米15年になるそうです。それが関係あるかどうかはわかりません。

 

二人とも学生時代、何事に対しても真っ直ぐに向かい合うタイプでしたが、その姿勢はそのままに様々な困難にも立ち向かってきたのだろうと想像できました。その結果、二人ともきっといろいろあったんだろうけど、でもとてもいい齢の取り方をしているようです。人間にとって熟成の時間は必要不可欠のものだと実感しました。

 

彼女たちとカフェで楽しい時間を過ごした後夕方から、昨年大晦日に50代半ばという若さで亡くなった私の謡の先生を偲ぶ会に参加しました。弟子の一人の方が、稽古時には毎回ビデオカメラをまわしていました。復習用だそうですが、ほとんど観返したことはないそうです。それが、こんな形で稽古仲間と一緒に見ることになったわけです。

 

最初の映像は2006年でした。ほんの6年前の先生の姿でしたが、ものすごく若々しく見えました。穏やかなお人柄と、我々不肖の弟子が少しでも上達するようにとの熱心で真摯な指導が甦ってきます。

 

先生は2010年頃からALSという難病と戦っておられました。昨年初め頃からは、帯を締める力も入らず、声も以前のように張り上げることもできず、毎回稽古に行くたびに痩せていくようでした。でも、弟子が望むならばできるだけ稽古をつけたいと代講はさせませんでした。それが生きる張りだったそうです。実際昨年の夏くらいまでは教えていただきました。そして、大晦日に亡くなったのです。

 

直近の記憶とは異なる、たった6年前の溌剌としたお姿。ある意味映像は残酷です。短い時間の中で人間が衰えゆく経過を、なまなましく私たちに突きつけるのですから。しかし、先生にとってこの6年が短かったのか、そうではなかったのか、それは先生以外誰も知りえません。

 

欠落したように感ずる時間も、熟成を感じさせた四半世紀の時間も、死に向かう6年の時間も、物理的には同じスケールで測られる時間です。でもとても同じ時間とは思えません。時間に抗うのでもなく無為に流されるのでもなく、時間に意味を与えるのは自分自身の意識とそれに沿った生き方次第なのだと思います。

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このページは、ブログ管理者が2012年7月 2日 14:18に書いたブログ記事です。

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