9/10の朝日新聞朝刊「折々の言葉」にこうありました。
(前略)昔の児戯には二つの特徴があった。自然を相手に「ゆっくりと、のびやかに」遊ぶこと。勝ち負けを競うものではないこと。遊びは「合理性を拒否する」ものなのに、余暇として計画したりすれば、遊びを再び合理性の中に閉じ込めることになる(後略)(安田武「遊びの論」から)
今の子供がどうなのかは知りませんが、大人についても言えることなのかもしれません。
先日、文楽のある三味線弾きの方に伺ったのですが、最近の太夫は以前の太夫に比べて少しでも上を目指そうという意識が欠けているそうで、それは自分が「できている」と思い込んでいるからなのだとか。文楽という狭い世界にいるとどうしても視野が狭くなり、自分の非力さが感じられなくなってしまうともおっしゃっていました。
その方の趣味は登山です。山という大自然の中では、人間は非力でちっぽけな存在。それを実感できることが、芸の助けになっているそうです。
仕事は、最終的には成果で評価されます。勝ち負けや損得から逃れることは難しいでしょう。大人にとっての遊びとは、意識せずともそれの解毒剤なのかもしれません。そうしてバランスをとっている。
将棋や囲碁、あるいは麻雀、競馬競輪といった「遊び」は勝ち負けがはっきりし、損得も明快です。面白いのかもしれませんが、私はどうも魅力をあまり感じないのは、漠然と遊びに勝ち負けの要素を入れたくないと思っているからなのかもしれません。
他者に挑む遊びよりも、自分と対峙する遊びの方が好きです。例えば習っている謡と仕舞は、あくまで自分の上達が目標で、過去の自分より一歩でも成長が感じられたらそれで嬉しい。美術作品や舞台を観るのも、作家と対峙するなんて大それたことは考えません。あくまで、自分がどう感じるかを楽しむのです。
ただ、「保有」という概念が加わると、少し趣が変わる気がします。骨董を買うということから、値段を納得するプロセスを排除することはできません。そうすると、どうしても勝ち負け、損得の要素が混じります。
私の場合は投資の観点はほぼないので、いくらで売れるからとは考えませんが、自分にとっての価値を判断する必要があります。自分自身の「美意識」を、そのモノの値段という尺度に変換することを強いられるわけです。こんなに美しいモノだから、これだけの値段は適切だろう、と。その際に比較対照するものはほとんどないですし、あってもあまり役に立ちません。世間の評価や相場のようなものもありますが、世間と私の美意識は異なってしかるべきです。こうなると、どれだけ自分を信じられるかであり、結局自分自身との対峙ということになります。損得の要素も多少加味しながらではありますが、合理性で測ったらとても買うことなどできません。合理性と親和性の高い機能性は限りなくゼロ。複雑です。(昔の経営者に骨董の蒐集家が多かったのは、骨董も経営もどちらも最後は「美意識」によって判断するものだったからなのかもしれません)
「遊びを」合理性の中に閉じ込めてはいけない、というのもよくわかります。パック旅行は観光ではあっても「遊び」ではありません。「遊び」にとって偶然性は必要条件だからです。偶然性や不確実性を楽しみ、そこに合理性より大きな価値を見出すことが「遊び」なのだと思います。
世間的には役に立たないこと、合理的ではないことにうつつを抜かすということは、とても人間的なことでありAIには絶対真似できない。そういえば、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という言葉がありました。人間は、遊ぶから人間なのだともいえます。マクロでいえば、日本はプライオリティを「生産すること・貯めること」から「遊ぶこと・費うこと」に変換する時期なのだと思います。「どう稼ぐか」よりも「どう(お金と時間を)費うか」に、人間が現れる時代なのです。