その他: 2011年3月アーカイブ

その日は朝から気持ちのいい快晴で、天気予報も一日じゅう晴れとのことだった。朝からオフィスで一人仕事していたが、13時半頃昼食を取っていないことに気づき、近所に最近できたセルフの讃岐うどん屋へいった。帰り道、さっきまであんなにいい天気だったのに、今はどんよりした雲が広がり暗くなってきたことに不自然さを感じた。夏の夕立前ならともかく、冬に突然大きな雲が発生し空を覆うことは珍しい。オフィスに戻り、早速天気予報サイトを確かめてみたが、やはり一日快晴を示していた。何か変だ。

 

1445頃、少し揺れを感じた。最近地震は珍しくもないので、あまり気にもせず仕事を続けた。しかし、何か違う。普段なら数秒で揺れはおさまるのに、その時は次第に横揺れが大きくなってきた。ぎしぎしとビルがしなるような音もしはじめた。とっさに、デスクの上の携帯電話を手にとり、クローゼットから上着(ジャケット)だけを持ち、外階段を駆け降りた。(11階中の)3階なのですぐに降りられたが、途中でキーキーと不気味に啼きながら飛び立つ鳥の群れが目に入った。

 

前の道路に出ると、すでに何人かの人々が恐ろしそうに、揺れるビルを見ながら口ぐちに何か声をあげていた。私は、100mほど先にある新宿御苑の大木戸口に向かった。地盤の緩い沼地にある泥の地面のように、足元の地面がゆさゆさと揺れた。わずかな距離だったが、目の前にある複数のビルがこちらに倒れてくるのではないかと不安で、とても長い時間のように感じた。途中にある大きなイタリアンレストランから、大勢のお客さんと店員が一斉に道に出てきて、入っているビルを見上げていた。不謹慎ながら(怪獣が襲ってくる)映画のシーンのようだと思った。この後、食事に戻れるのだろうか。

 

大木戸口の前には広いスペースがある。そこには、既に近隣のビルから避難してきた人々が2,30人はいたが、続々とその数は増えた。しばらくして揺れは収まってきたように感じた。その時点では、そこには100人近く集まっていた。1453、日本橋の会社にいるはずの妻に携帯で電話したがつながらなかった。電波は混雑しているのだろう。1459、携帯メールを送信した。

 

そろそろ、オフィスに戻ろうかと道路に向かい始めた時、再び大きな揺れが襲ってきた。(1515発生の茨木県沖を震源とするM7.4の地震と思われる)向こうに見えるいくつかのビルが大きく揺れている。そのまま倒れてくるのではないかと思ったほどだ。しばらくそこに留まることにした。

 

 その後、新宿御苑が解放されたので、周囲の群れとともに園中へ移動した。その頃にはまた快晴に戻っており、不自然に明るく大きな空と午後の温かい日差しで、ジャケットだけでも寒さは感じなかった。これだけ多くのビジネスマンで満たされた御苑は、当然のことだが初めてだった。職場単位で避難してきた人々も多く、中には点呼をしている集団もいたのが、なぜかほほ笑ましかった。しかし、その間も大きな余震はひっきりなしに続いた。

 

その頃だろうか、妻から「地震大丈夫?」とのメールが届いた。送信時間は1511だったが、届いた時間はたぶん16時は過ぎていただろう。でも、とにかく安心した。芝生に座っていた若い営業マン風の男性が、同僚とだろうか携帯で話している声が耳に入った。「3時のアポだったのだが、地震のせいで遅れて客先に着いた。でも、それどころじゃない、早く帰れ!といわれてしまった。さすがに、これからのアポはキャンセルしても問題ないよね」なんとも律義な営業マンである。

 

しばらくして、だいぶ揺れも収まってきたので、オフィスに戻ることにした。御苑からオフィスに向かう道で、知り合いらしき人を見かけたが、声はかけなかった。なんとなく、余裕がなかったのだろう。オフィスに戻ると、本棚から大量の本が落ちていた。また、本棚の上に置いていた置時計も床に落ち止まっていた。時間は。353を指していた。幸い、他には大した被害はなかった。

 

いつまた大きな揺れが襲ってくるかわからない。つけっぱなしだったエアコンを止め、PCを入れたバッグとコートを手に慌てて再びオフィスを離れ新宿御苑に向かった。なぜかその頃には再びどんよりした天気となっていたので、置いていた傘も持っていった。その頃には、大木戸口から出てくる人の大きな流れができており、流れに逆らって御苑の中に入った。その時、ぽつぽつとわずかに雨が落ちてきた。

 

園内放送では、地震の概要と都内の交通機関が全面ストップしていることを繰り返し告げていた。さらに、「大きな木や建物には近づかないように」と注意を促していた。子供の頃、地震が起きたら根のはった大きな木の下に逃げろと教わっていたことを思い出し、御苑には大木がたくさんあるが、どれも根は深く広く張っていないのだろうか、それとも時代によって避難方法は変わるものなのかと、変に考えてしまった。ノートPCをネット接続して、交通機関の運行状況を調べたりしたが、やはりどこも運休。これは、以前から警告されていた「帰宅難民」が発生するのか・・・。

 

日も暮れかかって、寒くなってきた。幸い先ほどの雨雲は消え、再び晴天になっていた。本当におかしな天気である。御苑の避難者はだいぶ減っていた。通常、御苑の閉園時間は16時半。すでに閉園時間はとうに過ぎていたが、さすがに締め出しはしない。でも、そのままいても仕方ないので、再度オフィスに戻ることにした。

 

大通りの様子を確認しようと、新宿通りに回ってみた。すでに、歩いて家路に急ぐビジネスパーソンらしき姿もちらほらとみえた。建物などに、特に異常はない。割れた窓ガラスなどもなさそうだった。

 

オフィスに戻ったものの、余震はひっきりなしにくる。外にすぐ避難できるよう玄関扉を少し開けておき、そのすぐそばにバッグを置いた。2,3回は実際に一階に駆け下り建物の外にでた。玄関に走ったのはその倍以上だったろう。この建物は昭和50年代築なので、大した耐震構造とは思えず不安だったのだ。とはいえ、公共交通機関はすべて動いていない。ただ、歩いて帰ろうとは考えなかった。それなら、一晩ぐらいオフィスに泊まろうと思ったのだ。ただ、こういう時に限って携帯のバッテリーが切れそうになる。これから何が起こるか分からないので、バッテリー切れはとても不安だった。

 

2036、実家の母から携帯に電話が入った。バッテリーが心配だったので、すぐに固定電話からかけ直す。やっと電話が通じたという。東京への電話が集中していたのだろう。無事であることを告げた。相変わらず、妻との連絡をタイムリーに取ることはできなかった。


すぐ外の狭い道路は、普段交通量は少ない。その地下を甲州街道がトンネルで走っているからだ。しかし、窓から見下ろすと大渋滞だ。消防車もいたが、ほとんど進まない。道路わきに地下トンネルに排気口が側溝のようにある。毎日暗くなると、どこからかホームレスのおじさんが現れ、排気口の上に器用にブルーシートで覆われた段ボールハウスを組み立ててねぐらにしている。きっと下から上がってくる排気は温かく床暖房のようなものなんだろう。そして、今日もいつものように組み立てて入った。そのすぐ横には、大渋滞の車の列。人々は何とか家にたどり着きたいと、大渋滞覚悟で車に乗る。そのすぐ横に、ホームレスの我が家。これも不思議な光景だ。その時ふと、段ボールハウスづくりの技術は、震災などの避難所できっと役に立つだろうとひらめいた。じっさいここ数日、TVで見る体育館などの避難所に、段ボールハウスっぽい間仕切りが急に目につくようになった。

 

ネットでニュースを何度も確認していたが、USTREAMNHKを同時中継していることを知り、ずっと観続けた。これは便利だ。でも、NHK受信料はどうなるんだろうかと、一瞬頭をよぎる。家々をなぎ倒して淡々と進軍する津波や気仙沼の街を覆い尽くす大火災の映像で、初めてことの重大性を認識したように思う。


昼からの天気の不自然な変化が気になり、ネットで調べてみると地震雲という現象を発見。地震前には電磁波が高まり、それが雲を生成させるという説があるそうだ。妙に納得。

 

21時過ぎに、食糧を調達しようと思い立ち、近くにコンビニに向かった。その頃は、徒歩で帰宅する人々で新宿通りはいっぱいだった。コンビニのトイレにも長い列が出来ていた。当然のように店にはほとんどすぐお腹を満たすような食品はなくなっていた。パンやおにぎりはともかく、カップ麺もなくなっていた。仕方ないので、ポテトチップス、柿の種、カップスープとビールを買った。さらに、エアコンが使えなくなり寒くなるといやだなと思い、サントリー角瓶(小)も買うことにした。これじゃあ、ちょっとした遠足気分だ。

 

引き続きUSTREAMNHKニュースを観ながら、ポテチでビール。適宜、交通情報を確認していたが、21時過ぎだろうか、JR東日本は早々に本日の全面運休を宣言。おいおい、ちょっと早いんじゃないと残念に思う。それ以外の鉄道会社はきっと少しでも早い運行のために必死で作業しているだろうに。企業の姿勢はこういう時に垣間見える。23時ごろ地下鉄丸ノ内線が運転とあった。すぐは混雑するだろうと思い少し待ち、24時ごろ新宿御苑駅に向かった。しかし、運行は始めたものの本数は少なく大変混雑しており、ここから乗り込むことは難しいと、駅員は言った。しばらくして電車は到着したものの、確かに大混雑。めげてオフィスに戻った。今晩はやはり泊まろうと決めた。

 

うとうととしていたところ、携帯のメールが鳴った。妻からで、「都営新宿線と京王線は各停のみだが動き出したらしい。もう少ししたら、富士見ヶ丘経由で帰ろうと思う。そっちの状況は?」発信時間は2302だったが、届いたのは2時前くらいだった。夜の母からの電話で、妻は会社近くのホテルだか宿舎?に泊まると聞いていたので、ちょっと意外だった。(母は、妻の実家からそう聞いたとのことだが定かでない)156に返信したが、反応はない。妻が帰宅したのなら自分も帰ろうと思いなおし、再び新宿御苑駅に向かった。途中歩きながら電話しようと思ったらついにバッテリーが切れた。

 

新宿御苑駅駅員の反応は前回と同様で、難しそう。諦めて新宿三丁目駅まで歩き、そこから妻と同じように都営線、京王線経由で帰ろうと考えた。駅の公衆電話から自宅に電話してみたところ、やはり妻は帰宅していた。この前に公衆電話を使ったのはいつだっただろうかと思った。

 

新宿三丁目の都営線駅で電車を30分くらい待ったものの、来ない。駅員に尋ねると後20分くらいは来ないとのこと。最初着いた時に尋ねたら、15分くらいで来ると言っていたのに。でも、腹も立たなかった。駅員はこんな先が読めない状況でも一所懸命に対応してくれていることが分かったからだろう。そのまま地下道でつながっている丸の内線の新宿三丁目駅に向かった。駅員に尋ねると、次の電車は今霞が関駅に到着しているとのこと。ならば15分後くらいには来るだろう。混雑状態を尋ねると、それほどでもないとのこと。なんだ、ならば新宿御苑駅から乗れば良かったと思ったが、やはりそれほど腹も立たず。予定通り電車は到着。やはりそれほど混んでいない。しかも隣の新宿駅で座れ、順調に荻窪駅到着。着いた頃にはお腹が空いていると感じ、駅前で牛丼を食べた。3時近いのに、なぜか女性客が多いのが意外。予想に反してタクシー待ちの列もなく、そこからすぐタクシーで帰宅。こうして、長い一日は終わった。

このアーカイブについて

このページには、2011年3月以降に書かれたブログ記事のうちその他カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはその他: 2010年5月です。

次のアーカイブはその他: 2011年4月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1