認識の枠をいかに破るか

人間は、極限状態に陥ると、別の「誰か」が現れ、導いてくれることがあるといいます。エベレスト世界初登頂を成し遂げたヒラリー氏が、疲れで朦朧となりながらかろうじて歩いていると、自分の頭の後ろに人間の存在を感じ、指示を与えて続けてくれた。だから、遭難せず生還できた。という話を読んだことがあります。

 

また、能では夢幻能といって、僧の夢に死者の亡霊が現れ、ひとしきり思いを述べて、目覚めとともに消えていくという形式があります。 夢幻能2.jpg  死者が夢枕に立つということも、それほど珍しいことではないようです。これらは、死者が強く思い残したことがあって、それを夢の形で生きている人に伝えると解釈されることが多いようですが、この世の人の潜在意識にある、ある考えが、死者の言葉を借りて顕在化すると考えることもできるのではないでしょうか。ヒラリー氏も同様です。

 

人間の認識は、所詮自分の頭に中にある記憶パターンと、その時の心持ちに適合するかどうかでなされると思います。人間は見たいものしか見ないですし、想定外のことは受け入れられないものです。

 

そんな人間が、極限状態や夢に頼らず、自分の認識の外に踏み出すには、どうしたらいいのでしょうか。ひとつは、自分が無知な存在であると自覚することでしょう。無知だから、外に光を求める強い意志が生まれる。

 

さらに、自分自身をもう一段階上から客観的に見つめることができるようになれば、認識の枠を破ることができそうです。元ヤクルトの古田選手が、優れた選手の条件として、常にもう一人の自分が自分を見ていることと言っていました。松下幸之助氏は、それを自己観照と言っています。

 

無知を知覚し、とらわれから放たれ、鳥瞰的に自己を見られる。

どちらも、禅の教えに通じると思います。

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このページは、福澤が2009年3月16日 17:36に書いたブログ記事です。

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