初心の花

古典は、読むたびに、その時点での自分に訴えかけるものがあります。

 

能楽の始祖ともいえる世阿弥が、「花伝書」の中で、初心について書き残しています。(白洲正子著「世阿弥」より) 世阿弥―花と幽玄の世界 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
白洲 正子
4061963945

 

二十代半ばとは、良い芸の生まれる時節である。名人を向こうに廻しても、若い人のほうが評判が良かったりする。観客も、新しもの好きなので、必要以上に持ち上げ、本人も思い上がる。この年頃の美しさを「初心の花」という。この、一時的な花を真実の花と思いこむ、その慢心が真実の花から遠ざける。

 

義太夫の竹本住大夫にこんなエピソードがあります。26歳くらいの頃、自分でも満足いく語りができ、観客も大喝采だった。誇らしい気持ちで、舞台を降りると当時六世住大夫だった父が、近寄ってきて「上手ぶってやるなっ!」と怒鳴り、張倒された。

 

初心の花から、うまく脱皮できるかどうかが大切です。さらに、真実の花を目指して、その後初心はどのような役割を果たすのでしょうか。

 

世阿弥は、「花鏡」で再び初心に触れています。

 

初心忘るべからず。現在の自分の程度を知るために、若年の頃の未熟な芸を、スタート地点として忘れてはいけない。忘れると、初心に逆戻りしてしまう。

 

初心時代から盛りの年頃を経て、老年に及ぶまで、その時々に似合った芸風をたしなむべきである。時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。

 

過去に演じた一つ一つの風体を、全部身につけておけば、すべてにわたって厚みが出る。時々の初心忘るべからず。

 

 

初心の花や時々の初心は、どんな人にでもあるものだと思います。未熟だった初心の頃の記憶を削除するのでもなく、また懐かしむのでもなく、今の自分の程度を測る起点として忘れない。そして、常に時々の初心を追及していく。そんな厚みのある人生を送りたいものです。

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このページは、福澤が2009年3月 2日 09:16に書いたブログ記事です。

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