組織の能力: 2012年11月アーカイブ

田中真紀子文部科学大臣の3大学不認可騒動は、結局彼女による撤回と謝罪で終わりました。田中大臣が日本の大学教育に投じた一石も、結局うやむやになってしまいそうです。少なくとも私の友人の多くは、彼女の一石に賛成し喝采すら送っていました。でも、マスコミは「オサワガセ田中女史がまたやった」「進学を検討していた学生がかわいそう」という情緒論に終始していたようです。いかに現在の日本で、正論を述べ本質の議論を促すことが難しいか再認識しました。

 

ほとんどの人は、

「日本は子供の数が激減しているにも関わらず大学数は急増している。それにつれて大学教育の質は、社会が要請するものからどんどん乖離し劣化している。それが苛烈な就職難の要因にもなっている。さらに、若い社員の能力低下が、日本企業のグローバルな競争力低下の原因のひとつになっている」

ということを知っています。

 

そんな折、苅谷剛彦著「イギリスの大学・ニッポンの大学」を読み、考えさせられました。苅谷氏は日本の高等教育研究の第一人者であり、2008年に東大を去りオックスフォード大学に移りました。日米英における高等教育実践者の言葉は、いちいち腑に落ちます。例えば、

グローバル化時代の大学論2 - イギリスの大学・ニッポンの大学 - カレッジ、チュートリアル、エリート教育 (中公新書ラクレ)
苅谷 剛彦
4121504305

 

(日本の)大学は訓練のしやすさを示すシグナルだけ提供していればよかった。大学入試で測られる偏差値や大学のランクがそうしたシグナルとなる。それらは、大学受験で必要とされる、努力や勤勉さ、さらには要領のよさや飲み込みのよさを示していた。だから、大卒者の大部分に就職後に正社員として仕事を通じて知識や技能をじっくり身につけさせることのできる余裕があった時代には、大学で何を学んでいるかに社会は関心を向ける必要がなかったとさえいえるのである。

 

日本の社会にとっての大学は学習の場であったとしても、そこでの学習は、授業以外のこうしたさまざまな経験を通して得られる「体験学習」であり、大学はそのための時間を与える場であれば十分だったのである。(中略)学校教育の最後の段階で、幅広い「体験学習」の時間を与え、就職後には会社人間として職業に必要な技能・知識を身につける・そういった人的資源形成の日本的な仕組みのもとで、大学の役割は規定されてきたのである。

 

 

こういったことが続いてきたのは、日本の大学も国内の新卒市場も、日本語という言葉の壁と日本企業の雇用慣行とによって守られてきたこと、その慣行は国内市場が大きくかつ成長していたため企業もOJTをするなどの余裕があったためだと考えられます。

 

ところで、本書で書かれている面接を中心としたオックスフォード大学の入学試験は、日本企業の採用プロセスと非常に似ていることに驚かされました。

 

自分(面接官たる教員)がその学生を指導するようになったら、この学生はその後のハードな教育内容をこなせるかどうか、厳しい教育と学習を経て将来どのくらい伸びるだろうか、いい論文が書けるかどうか、生涯にわたって社会に貢献できる人間になるだろうか、といった観点から学生の能力や適性を見抜こうと教師も必死になる。

 

上記の教育や学習、論文という言葉を「仕事」に置き換えれば、そのまま私が企業の採用場面で体験した立場(採用&被採用者)に通用します。

 

 

つまり日本企業が採用時に行うスクリーニングを、イギリスでは大学が行っている。さらに言えば、日本企業が新卒社員に行ってきたOJTを中心とした教育を、イギリスではチュートリアルという仕組みで大学が行っているとも言えます。

 

しかし、日本企業にそんな余裕はどんどんなくなっている。だから、日本の大学にその教育機能を求めるように動くのか、それとも既にその機能を担っている海外の大学卒業者の採用を増やしていくのか。

 

国内大学へ期待したところで、構造化された仕組みを変えることは困難ですし、できたところで10年単位の時間がかかることでしょう。となると、海外大学卒業者に依存せざるを得ない。しかし、それは言語の問題以上に開かれた企業文化に変革するという企業組織の問題に直結します。(例え、国籍問わず外国大学卒社員を採用したとしても、これまで通りの組織であれば長続きしないでしょう)これはそう簡単ではありません。とはいえ、大学の変革を待つか、自らの変革に舵をきるかと問われれば、グローバル競争に直面する企業は、後者の選択しかできません。

 

日本の大学教育の問題は日本企業の競争力に直結するのです。その意識を持つことが不可欠です。では、オックスフォード大学では、どのような教育が行われているか。もちろん、日本企業のOJTとは大きく異なります。それは別途考えてみたいと思います。

自分では無理だと思っていることを、何とか変えられるのではないか、と気づかせることはとても重要ですが難しいことです。でも、決して不可能ではありません。ポイントは、「自分では」を「我々なら」に転換することだと、先日ご紹介した「社会を変えるには」(小熊英二著)を読んで気づきました。

 

10/1「チャンスをつかむ人とそうでない人」を書きました。その会社は、長期的な経営環境は非常に厳しいのですが、目先利益は出ているため、社員に危機感はあまりない。そのことに危機感を抱いた社長の意図を汲んで、事業部門長を対象としたワークショップを実施し、危機感の醸成を狙ったのです。

 

ワークショップでは、先に書いたようにメンバー全員が前向きだったわけではありませんでしたが、終了後にふたつの宿題を課しました。


ひとつは、ワークショップでも議論した、「当社の目指すべき10年後の姿とそこに至るステップ」を、各グループ(3グループあります)でブラッシュアップすること。二つ目は、「そのために自部門がやることと、自分自身がやること」です。このふたつを提出してもらいます。それを、グループごとに社長との対話の時間を設け、発表し対話することにしたのです。もちろん社長には事前に発表内容に目を通しておいていただきます。

 

先日、三回の対話セッション(社長との朝食会の仕立て)が終了しました。社長には、皆一生懸命考えてくれた、と大変喜んでいただきました。さらに、12月に開催予定の役員会で3グループとも発表するようにとの指示。収支の数字をもう少し詳しく入れて欲しいとの追加注文が付きましたが。

 

このワークショップの企画運営責任者である教育研修部長は、こう私にメールをくれました。

「厳しい環境にあることを認識し、対策を考えることでモチベーションはあがるものなのだと思いました」

 

厳しい現実を直視することはつらいことです。直視した結果、やる気がそがれることもあり得ます。それを経営としてどう扱うかは、難しいところです。

 

しかし、皆現実には気づいているのです。ただ、「自分」としてどうすればいいかわからない。だから見えないふりをすることもあるでしょう。そこに問題があります。やはり、経営に近い階層のリーダーには直視させるべきです。ただし、孤立させない。他のリーダーも同じような悩みを抱えていることに気づかせ、自分だけでなく「我々で」打開策を考える、そういうふうにもっていくことが大切です。そして、その成果をトップが正面から受け止める。それによって、彼ら彼女らのモチベーションは確実に向上します。

 

損益責任に縛られ、ばらばらになりがちの部門長らに、「我々」意識を持たせることで、重たい歯車が回っていくのです。

 

イノベーター(革新者)とアーリーアダプター(初期採用者)が16%を超えると、爆発的に普及が拡大するというマーケティング理論があります。組織もそれと同じで、こういった「我々」を組織の中で増やしていき、全社員の16%にまで達すると、爆発的に変化が起こるかもしれません。

 

地道にばらばらな「個」をつないで「我々」をつくり上げ、16%にまでそれを増やすことで重たい粘土層も溶解して、大きな変化が起こる事例はたくさんあります。決してあきらめる必要はありません。

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