組織の能力: 2012年4月アーカイブ

経済学の基本中の基本は、できるだけ少ない投資(費用)でリターンを最大化することです。当たり前ですね。バブル期と小泉改革の頃の社会規範、つまり判断基準がまさにそうでした。その頃感受性を育んだ世代は、しっかりその規範を内面化しているのでしょうか。内田樹さんいわく、近頃の学生は学校選択も、勉強も入社する会社選択も、全て「賢い消費者」のごとく、最低限の出費で最大の価値を手に入れようと動するそうです。目指すは価値の最大化ではなく費用対効果の最大化、そうすると自ずと費用の最小化に流れるのが人情でしょう。経済合理性だけで、生き方や社会のつくりなどを決めてしまったらどういう未来が待っているのでしょうか。

 

経済の規範をそれ以外の世界に持ち込むことで、個人の成長、ひいては社会の進歩を妨げることになりかねないと思います。経済の規範は、基本的に自分の利益を最大化する合理的人間を前提としています。利己的個人といってもいいでしょう。まさに「賢い消費者」です。個人の利益最大化すなわち所得最大化のために、一所懸命勉強し仕事することが、個人の成長そしてGNP成長につながるというロジックです。

 

しかし、自分の欲望を満たしたいというエンジンでどこまで人間は頑張り成長できるのでしょうか。欲望に限りはないといいますが、そうは思えません。当然より多くの欲望を満たすには、その対価もどんどん増大していきます。増大する対価(時間、ストレス、不安など)による苦痛に対して、案外早く耐えきれなくなるのが普通だと思います(これは日本人特有かもしれませんが・・)。多くの人は、適当なところで手を打つに違いありません。従って、それでは個人も社会も、そこそこの成長しか期待できません。

 

ではどうするか。ホンダの久米元社長は同社飛躍の原動力となった、アメリカの排ガス規制(マスキー法)を世界で初めてクリアしたCVCCエンジン開発時の体験を以下のように語っています。(久米氏はプロジェクト

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リーダーでした)

 

チームメンバーの休日どころか睡眠時間もどんどん削られていきます。そんなあるとき、「この排ガスの課題は先発メーカーと同じスタートラインに立つ絶好のチャンスだ」という、トップの激励ともとれる発言が、苦闘を続けるメンバーに何とも受け入れがたい反感を呼び起こしました。

「そんなことのためなら、もうとっくに家へ帰って寝てますよ。これは空気をきれいにしようという世のため人のための仕事じゃないんですか?」

(出所:「ひらめき」の設計図
久米 是志
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個人や会社の利益のためならここまで頑張れない。もっと大きなもののためだからこそ出るエネルギ―があるのです。もちろんメンバーに利己心がなかったわけではありません。でも、このレベルの高い目標を達成するにはそれでは不足です。世の中というようなもっと大きなもののためだからこそ創造性も発揮でき、それがメンバーを大きく成長させ開発も成功し、ひいてはホンダも成長できたわけです。

 

ここで疑問がわきます。なぜメンバーは、そこまでして「世のため人のため」に頑張ろうと思えたのか。トップが、これは世の中の役に立つプロジェクトだから寝ないで頑張れと激励したら頑張れたでしょうか。そう簡単な話ではないでしょう。人間には本来利他の精神は持っていることは間違いないと思いますが、どういうときにそれが起動するのか。つまり、個を捨てるきっかけは何か。昨年の大震災はそれだったかもしれませんが、事業活動において。

 

久米氏は直接それに言及していませんが、私はそれはこの開発チームが作り上げていった「場」の力だという気がしてなりません。「場」ではさまざまな個性、感情、知識が集まり、激しく相互作用を起こしていたことでしょう。そこでのダイナミズムが、目的の次元を自ら引き上げていったのではないでしょうか。久米氏はプロジェクトの初めの頃は、皆どちらかといえば利己的思いが強かったと言っています。「場」ができるに従って、自分と他メンバーとの境界が薄れ一体化していき、そしてさらにそれが進むと開発チームと会社との境界(会社の指令で動いているという状況)も薄れ、やがて社会との境界もなくなり社会と一体化していったのではないでしょうか。(宗教的高揚感との類似点もありそうな気もします)

 

このようなレベルでは、個人の費用対効果などどうでもよくなります。次元が違うのです。かつての日本企業では、こういう話はいくつもあったように思います。ところが、バブルの頃からか、先の学生ではないですが何でも費用対効果を基準にする傾向が強まり、その結果大きなジャンプができなくなってきているような気がします。世のため人のためじゃなく、株主のためじゃ力は出ませんよね。

 

 

そういう意味でも、昨年の大震災は日本を変えるきっかけになるのではと期待しましたが、まだ変化の胎動は見えてきません。

かつて五重の塔をつくり上げるのに詳細な設計図はなかったそうです。そのことについて、宮大工棟梁の西岡常一氏はこう書いていました。

 

「関わる大勢の職人ひとりひとりが、五重の塔のできあがった姿を頭の中に描いている。だから細かい設計図はいらない。その頭の中の像を示すのが棟梁の仕事だ」

 

それを読んだ時、単純に職人ってすごいなあと感心しました。また、詳細な図面なしにそれを示せる棟梁も。

 

分担作業をする職人は、出来上がった姿だけでなく、自分以外の分担部分の詳細について深く理解していなければ、きっとそれは不可能でしょう。分担作業による効率化と深い全体理解の両立が、集団でおこなう高品質な仕事(芸術作品でなく)の条件に違いありません。

 

 

また、作家の木内昇氏のコラムにも、こんな話がありました。

 

以前、岐阜にあるギター工場を取材したことがある。数々のミュージシャンが特注品を頼むほど質の高い製品を生み出す現場は、完全分業制だった。板をカットする人、弦を張る人、色を塗る人ときっちり専門が分かれ、それによっていっそう精度を高めている。ところが、あまたいる職人さんのほとんどが、全工程の技術を身につけているという。つまり、ひとりでもギター一本作れるのだ。研修で学ぶのかと思いきや、なんと、始業前や昼休みに銘々が他工程の仕事を見たり、職人同士教えあったりして、働きながら専門外の技もものにしてしまうらしい。(中略)「会社から言われたわけでもないんですけどね」と、笑いながらさらりと言う(中略)。全体が把握できれば、自分に課された仕事への理解もより深くなる。言われたことをただ言われたようにやっているうちは、仕事とは言えんのだな、と改めて思った。

 

 

職人に限らず、多くの現場(生産工程やサービス提供の場など)では、少なからずこういう姿勢で仕事に臨んでいるような気がします。仕事の質を上げたいからという功利的な考えではなく、もっと原初的な欲望というか本能の声で、やらずにおれるかという気になるのが、日本人の特徴なのではないでしょうか。

 

しかし、これがホワイトカラーの職場になると、なかなかそうはなりません。T型人材というこ言葉もありますが、功利的な響きがありちょっと違いますね。結果がすぐ見える現場に対して、見えにくいのがホワイトカラーの職場だからなのでしょうか。それとも、もともと持っている本能の発露を妨げる何かがあるのでしょうか。


日本企業は、相対的に弱み克服にエネルギーを割く傾向があります。それも必要ですが、本来持っている強みを再認識して、それを活かすことを真剣に考える時期に来ているように思えてなりません。

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