組織の能力: 2013年4月アーカイブ

社員は自立しなければならない、これからは自律型組織を目指すべきだ、といった言葉は、どんな企業でも聞かれる言葉だと思います。でも、それらの定義を明確にしている企業は、そう多くはありません。今回は、私なりに解釈してみたいと思います。

 

自立の対義語は依存です。まずは経済的に、さらにも精神的に人材的にといろいろ続けられるでしょうが、何らかの面で他者に依存することなく存在できること。大企業の子会社の多くは自立していません。親会社にあらゆる面で依存しています。それは、子会社の能力がないからというよりも、親会社が真には子会社の自立を望んでいないからという理由が本当だと思います。

 

社員と会社の関係も似ています。会社は社員に、もう会社に依存するな、それほどの余裕はなくなったので、自分の将来は自分で考えなさいというわけです。でも、もし社員がそれを真に受けて、自分の自立を第一に考えたらどうなるでしょうか。将来に備えて何か他の会社外の事業にかかわると(お金目当てでなかったとしても)、兼業規定に抵触し罰せられます。また、自立を意識した仕事の仕方や異動を会社に要求したところで、特別扱いできないと言われるのがおちです。つまりが、対等な関係でないところで、自立はできないのです。会社も、昔と比べたら自立の方向を目指しているのは間違いありませんが、いかんせんまだその途上の途上。会社の囲いを外れることは非常に難しい。その結果、社員は「ダブルバインド」の状況に陥る。

 

 

一方の自律。自律とは、自らで自らを律すること。自らを律するとは、システム論的にいえば、自らの現在や未来を決める重要な変数はシステム内部にあり、外部の影響を受けるとはいえ、それへの反応を含め内部のシステム内で結論が出せ、サイクルを回し続けることができることです。つまり、自分で自分をコントロールできる。

 

GEの元CEOジャックウェルチが好んだこの言葉こそ自律を適確に表しています。

Control your destiny or someone else will

 

重要な変数としては、経営資源がまずあげられます。資金や人材を自分で調達し運用できる。また、プロセスの最初から最後まで動かせる。そして、結果がフィードバックされ、次のサイクルに反映することができる。これじゃあ、会社そのものじゃなかいと思われるかもしれませんが、そうなのです。自律型組織とは、バーチャルであろうと、小さな単位であろうと完結した一つの会社単位として振る舞える組織のことです。京セラのアメーバ-経営など、日本にもいくつかの例があります。自由度が高いと言えますが、当然結果に厳しい。倒産もあり得る。会社全体からみれば無駄も発生するでしょうし、言うことをきないというストレスも高まる。「変数」を差し出すことは簡単ではない。

 

自律するには、本人(自組織)は当然ながらそれを包含する企業全体にも覚悟が必要です。もちろん能力や度量も。自律型組織とピラミッド型組織をひとつの組織の中で併存できるものなのか。安易に自律しなさいと突き放すのではなく、本当に今それが必要なのか、それの実現のために企業としてどのような手を打つ必要があり実際に打てるのか、トップの責任のもと何年その浸透に時間をかけられるのか、仮にそれが実現したときに企業全体として受け入れられるものなのか、などについて十分な検討が必要と思われます。

 

思いつきや流行でなく、本気で自立や自律を検討していただきたいと思います。 

またまた、若くして登用された社長が任期途中で辞職し、実力者である元・前社長が社長復帰するという報道がありました。先月の資生堂に続いて東京エレクトロンです。現社長は52歳。2009年に48歳という日本企業にしては異例の若さで社長就任しました。対する次期社長(現会長)は63歳。

 

それぞれの詳細は知りませんが、日本の組織で社長を務めることの意味を考えさせられる出来事でした。社長といえば会社のトップです。内部昇格であれば当然、極めて優秀で人望もあると、社内で長い時間をかけて選抜評価されてきた人材が就任するものです。にも拘わらず、途中辞任ということはどうしてでしょうか?両社とも、結果が出せていないことが理由に挙げられています。トップは結果責任とはいえ、なぜ結果を出せないような人が社長になったのか。なぜ結果を出せなかったのか。

 

推測される理由は二つあります。

 

ひとつは、戦略的意思決定の能力がなかったこと。社長の仕事は、最終的に意思決定することでしょう。社長以外の幹部は、意見は何とでも言っても最終的な意思決定はしません。つまり、社長とそれ以外では全く役割が異なる。例えナンバー2として、素晴らしい判断をしてきた逸材であったとしても、最終意思決定者としての能力はそれほど高くなかった。経営幹部として優秀であるからといって、社長として優れた意思決定できるとは限らない、ということがありうるのです。

 

日本ではそもそも社長に、そういった戦略的意思決定能力を要求しなくてもよかった時代もありました。お神輿経営の時代ですね。でも、今はもう違う。時代が変わる過渡期には、社長選任の間違いが起きやすいのかもしれません。

 

二つ目は、上記にも関係しますが。組織が社長の思うように動いてくれなかったこと。若くして抜擢される社長ですから、相当優秀な方なのでしょう。しかし、日本の組織において、トップが優秀だと組織が強くなるとは思えません。お神輿に乗っているだけの社長のほうが、組織として効果的に機能することもあります。日本の組織では、下が上のために頑張ろうちすることで、組織の力が最大化される傾向があります。そこで、なまじ優秀なためトップダウンの経営を推し進めようとすると、下が上手く機能しなくなってしまうことがあります。いくらトップが優れた旗を振っても、組織が動かなければ成果は出ません。お神輿経営の組織風土が残っているところで、これからは欧米型の強いリーダーだ、といっても機能しないわけです。これも、過渡期に起こりうる悲劇です。

 

では、これまで戦略を決め実質的な意思決定をし、組織を動かしてきたのは誰だったのか。

 

先日NHKETV特集で、「何が書かれなかったのか ~政府原発事故調査~」という、非常に興味深い番組がありました。政府事故調メンバーが、解散後一年ぶりに集まり、「振り返り」をするというものです。その中で、メンバー各自が重要だと考えながら。報告書に様々な理由で盛りこめなかったことを語っていきます。

 

あるメンバーのこの言葉が非常に印象に残りました。

「この国は、役所の課長が動かしている。そこに切りこめなかったのが残念だ」

 

膨大なヒアリングをした調査委員会ですが、役所のおけるその対象は審議官(企業でいえば執行役員クラス)以上だったそうです。つまり責任者です。でも、彼らにいくら聞いても事実はわからない。隠しているのではなく、知らないからです。知っている、つまり決めているのは課長クラスだからなのです。でも、責任のない課長クラスにはヒアリングできない。彼らに辿ろうとしても、名前どころか部署名も明かされない。それは、調査委員会の権限を超えることらしい。

 

顔も見えず公式な責任もない課長が、実は戦略を決め組織を動かしているというのは、役所だけでなく日本大企業組織の実態のようです。一橋大学の野中先生が、「ミドルアップダウン」が日本組織の強みだと提唱されていました。確かにそうだったかもしれません。

 

しかし、原発事故のような不測の事態が起きたときに、それが適切に機能するとは思えません。ますます不確実性が高まる企業においても、こういった目に見えないインフォーマルな構造にメスを入れることが必要だと考えます。ただ、それは日本の組織の強みを奪うことになるかもしれない。成果主義の導入が多くの企業の組織を弱くしたように。


トップは権威をもち、ミドルが(実質的)権力をもつ二重構造。天皇と将軍の関係のように、これは日本文化の伝統です。そこにどう立ち向かうべきなのか。これはとても、難しくかつ重要な問題です。



このアーカイブについて

このページには、2013年4月以降に書かれたブログ記事のうち組織の能力カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは組織の能力: 2012年11月です。

次のアーカイブは組織の能力: 2013年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1