組織の能力: 2011年4月アーカイブ

原発の安全神話を支えてきたのは、科学技術であることは論を待ちませんが、人々にそれを信じさせてきたものは、安全性を表現するために使用された多くの「数字データ」だったのではないでしょうか。「こういうデータが出ているので、大丈夫ですよ」と。難しい科学技術の概念的理論をどれだけ詳しく説明されたところで、大多数の人々は理解できません。しかし、数字で示されると何となく安心するのです。その数字の根拠だとか意味合いとかは。ほとんど理解できません。ただ、数字で示されることでなんとなく「正しい」と感じてしまうのです。それをうまく利用してきたのが電力会社であり政府なのかもしれません。

 

これほど一般に数字データには「弱い」。馬鹿げていると思われるかもしれませんが、そんなことがそこここで起きています。例えば、これまでと全く異なる新しい研修の導入を検討しているとしましょう。担当者は変えることが「正しい」と確信しているのですが、上司を説得せねばなりません。上司はこう言います。「君の熱意はわかるが、本当にこれまでの研修より新しいもののほうが良いことをデータで証明してくれ。そうじゃなければ私は上を説得できないよ」

 

これはしばしば起こることです。上司が期待するのは、好ましいことを示す「データ」であり、決して「好ましさ(という事実)」ではないのです。

 

 

研修効果を測定してほしいという要望もあります。それは、その研修を実施したという自己の判断を正当化する「データ」が欲しいということに他なりません。もちろん、すべての経営判断はきちんと評価されるべきです。できれば定量的に。しかし、できることとできないことがあります。こと研修については、定量評価への期待が大きいと感じています。それは、測りやすいと思われているからなのか、経営へのインパクトが大きいため緻密な評価を必要とされているからなのか。残念ながらどちらもNoです。満足度の評価は容易ですが、効果の評価には膨大な時間とコストがかかります。費用対効果は見合わないでしょう。経営へのインパクト?、それもたとえば人事制度変更や組織改革などと比べれば、必ずしも大きくはない。ましてや制度や組織変更の効果測定を定量的に行ったなどという話は聞いたことがありません。結局定量データを欲しがるのは、企業組織における「権限」、「信頼度」、「政治的影響力」が比較的弱い組織の「生きる知恵」みたいなものかもしれません。

 

残念ながら、欲しいのは真実ではなく説得材料。原発推進派は強大な権力は持っていますが、こと民主主義のもとでは住民の説得という大変高いハードルに直面します。やはりそこでは、真実よりも説得材料が必要なのです。東電でデータ捏造が数年前問題になりましたが、「原発を推進すべき」という彼らにとっての「真実」、あるいは「正義」を前にして、データ捏造は「説得」のための必要悪だったのだと思います。


もちろんいい仕事をするために、多少腕力(データの巧妙なトリックも含めて)を使って説得し、意見を通すことが必要なときもあります。しかし、えてして「真実」や「正義」のためのつもりが「保身」のためにすり替わってしまいがちなのです。その差は紙一重かもしれません。

 

このように、数字データは非常に危ういものなのです。それをわきまえて付き合わなければなりません。

東日本大震災発生の4日後の3月15日、みずほ銀行はまたもシステム障害を引き起こしました。よりによって日本中がリスクに敏感になっているときに、金融の中核である決済業務が停止してしまうという、大失態を演じました。しかも、合併直後にもシステム障害を起こしたという前科がありながら。かつて富士銀行に身を置いたものとして恥ずかしい限りです。

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その原因はさまざま取り沙汰されているようですが、突き詰めてみれば三行合併の弊害だといえそうです。旧住友銀行や旧三菱銀行のように救済合併でないみずほ銀行は、三行バランスをいまだに気にして組織の一体化が図れていないのではないでしょうか。旧行意識を脱却するのは、それだけ難しいのです。旧第一勧業銀行という身近な事例があったにも関わらず・・・。

 

なぜそれほど難しいのでしょうか。旧行の組織風土が強固で、それぞれプライドも高く混じりあうことが難しいのでしょうか。そういった情緒的理由もあると思いますが、最も大きいのは終身雇用を前提とした人事管理システムの弊害だと思います。

 

慶應ビジネススクールの高木教授は、以下のように指摘しています。

 

終身雇用がある場合は、ない場合に比べて、人脈が濃密につくられる。どうしてそうなるかというと、大学の新卒を毎年一括採用することによって、「年次」のレイヤーがミルフィーユ構造のように重なっていくことによる。

 毎年それが行われると、興味深い現象が起こる。採用活動の際のグループ面接では、お互い競争相手であると同時に、同期にもなるので、お互いに品定めを始める。そして入社して何年か経つと、上の年次も下の年次も見て、次第に「できるヤツ」が特定されていく。

 終身雇用の場合はどうしても、そのできるヤツに資源、情報、チャンスが集中し、上も同期もいわゆる一目おく存在になり、みながその人とつながろうとする。今風に言えばネットにリンクを張ることと同じだ。情報量の豊かなサイトにリンクを張っておけば、訪れた人が自分のサイトにも来てくれるだろうという考えでリンクを張るが、この考え方は人脈でも同じである。

 そしてそのできるヤツが、会社の中で有力者になっていく。ただ、会社に「生息する」という言葉で表現したように、有力者は必ずしも会社にとってプラスのことばかりをやるわけではない。自分にとって、あるいは自分の回りに人にとってメリットある状況をつくろうとするのである。(中略)

 その際、終身雇用では、上から与えられたミッションを達成すればハッピーかというと、それほど単純ではない。終身雇用下で働く人は、与えられた目標を達成すれば、どうなるかを長い目で見て考える。ボスや部下との関係も含む政治力学の中で、目標達成の意味を考えるのである。

(出所:http://diamond.jp/articles/-/11544?page=5

旧行それぞれに、同期や同僚経験者を中心に強固なネットワーク(人脈)が張り巡らされ、その中での最適化を図るような行動や意思決定を取っていく。それは必ずしもみずほ銀行全体ひいては顧客に対する最適化を目指すものではない。今回のシステム障害事件も、事前に起こることを予測していた行員はたくさんいたはずです。しかし、それを指摘し防ぐべく行動することが最適行動とは判断されなかったのでしょう。

いまだに人事部は三つに分かれており、それぞれ出身行の部員が旧行行員の異動や昇格を握っているのかもしれません。上述のネットワーク原理に基づいた組織の意思決定がなされ続けているとしたら、同じような事故が再び起こることは否定できません。

 

これはみずほ銀行固有の問題ではなく、がんじがらめの社内ネットワークが競争力の源泉だった多くの日本企業(規制業界に多い)に共通だと思います。ただ、たまたまその傾向が最も強かった三行の対等合併という荒業を選択したみずほ銀行だから、その矛盾が一気に露呈されたのでしょう。

 

終身雇用や社内ネットワークの効用はこれからも存在し続けると思います。しかし、それによって失うものもますます大きくなっています。そこまでを考慮に入れて、適確な戦略や組織運営を探っていくことが今求められているのでしょう。

 

 

おまけ:昨晩、旧富士銀行の同期8人(みなOB)が集まって久しぶりに酒を酌みかわしました。共通の体験を持ちながら、現在はそれぞれ異なる分野で活躍する多彩な同期は一生の宝です。

ドイツの中央銀行は、極端にインフレを恐れることで有名です。アメリカ人は、身を守るための銃の規制には、驚くほど頑なに抵抗します。日本人は、ことコメについては主食とはいえ非常に神経質です。

 

それぞれには理由があります。ドイツは第一次世界大戦で負け超ハイパーインフレで苦しみました。それがナチスの台頭を促したという見方もあります。アメリカは、イギリスなどから大陸に移住し自分の腕一本で開拓してきた開拓者の末裔の国です。銃はその精神の象徴なのかもしれません。日本は言うまでもなく、何百年にわたりコメが通貨の役割もはたしてきました。そして、凶作による米騒動や敗戦直後の貧困など、苦しい記憶とコメはいまだに結びついているようです。これらは、長い時間が経過しても、同じ体験を自分もしたかのようにそれぞれの国民の精神に染みついているのだと思います。民族の記憶ともいえるでしょう。理屈ではありません。

 

このように大多数の人々が同じ体験をすることで、後世の人々にまでその記憶を伝承するのです。逆にいえば、人は自分が思うほど「自由」な思考を持っているわけではないでのす。

 

今回、主に東日本の人々は地震、津波、原発事故という3つの危機に直面しています。人々は地震と津波への記憶は持ち合わせていましたが、原発事故の記憶、体験はありません。あえて近いものを探せば、広島と長崎に落とされた原爆と、昭和29年に起きた第五福竜丸の被爆事件かもしれません。しかし、それらは「平和への祈り」というコンテクストで記憶されていますが、放射線の恐怖というコンテクストではあまり記憶されていない気がします。アメリカとの関係、経済成長のためには原子力を使った発電に頼らざるを得ないといった理由などから、あえてその面からの記憶にふたをしてきたのではないでしょうか。しかし、それらを体験として知るお年寄りは、今回の原発事故に我々が想像できないほど恐怖を感じているという話を聞きます。そう考えれば、国民の記憶とは、なんらかの意図によって操作された記憶ともいえそうです。

 

 

現在起きている三重苦ともいえる危機を共通体験している我々は、どのような共有された記憶をこれから紡いでいくのでしょうか。それは、今回の危機をどう捉え、そこからどこに向かっていくのか次第だと思います。未来があるからその文脈に沿った記憶があるのです。

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ほおっておけば、17世紀のポルトガルのように国家没落の引き金としての災害と言う記憶になりかねません。そうではなく、未来の人々の記憶に「2011年の三重苦が日本を生まれかわらせた。想像もできない危機のたびに日本はよりたくましく生れ変る国なのだ」と記憶させたい。既にその記憶はすべての日本人の底流にはあるはずですから。そのためには、徹底した反省と国民を団結させるビジョンが必要です。

 

こういった共通体験に基づく共同記憶のマネジメントは、今後企業においても重要になってくると考えます。ビジョンとかバリューとかウェイとか盛んに叫んでみたところで、それが構成員の「共同記憶」に組み込まれていなければ意味がありません。経営者とは、ステークホルダーに対して好ましい共同記憶を植え付けることに責任を負う存在なのかもしれません。



おまけ)

今、新宿御苑の桜は満開です。桜を眺める人は例外なく、穏やかで優しい表情をしています。これは、私たち日本人には桜についての「共同記憶」があるからではないでしょうか。入学式、花見の宴会、花筏、京都、西行、吉野山、義経、特攻隊、眠っている死体、花吹雪などなど、それぞれの人が自分のストーリーを持っています。それらの総体としての「桜の記憶」が、穏やかで優しい気持ちにしてくれるのでしょう。

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