組織の能力: 2009年8月アーカイブ

リーダー対象の研修を企画する場合、例えば「経営戦略」をメニューに入れたいとの要望があっても、企業によって、その意味合いが全く異なることが多いです。

 

例えば、・・・・・

 

 

    メーカーA

わが社のリーダークラスにもなれば、経営戦略を策定する能力が求められる。したがって、経営戦略を学ばせたい。ちなみに、一日で経営戦略研修をする場合、ラーニングポイントは何ですか?講師は、どのようなステップ(あるいはタイムスケジュール)で進行するのですか?最終的に、受講者に何を持ち帰ってもらうのですか?

 

    商社B

リーダーだから経営戦略を学ぶというわけではない。若いうちから現場で、戦略を作る場面は何度も経験しているのだから。ただ、これまでは、自己流で学んできているので、それが果たして正しいのか?とのもやもや感を抱いている。したがって、研修では、できるだけリアルな事例を踏まえて、彼らの経営戦略に対する見方や思考が、ずれていないかを確認させてほしい。

また、他の受講者がどういう考え方をするのかも、共有させたい。つまり、これまでの彼らの経験に、意味づけを与え、また整理し、概念化させてほしいのです。そうすれば、また勝手に経営戦略でも何でも学んでいくでしょう。

ラーニングポイント?そんなものどうでもいいですよ。必要なら、本を読めばいいんでしょう。

 

 

同じ経営戦略でも、こうれほど違うことは、珍しくありません。それは、プロセスを重視するメーカーと、商売を自分で作る事にこだわる商社という、業界による部分もあるでしょう。しかし、それだけでもない気がします。

夏の高校野球大会は、劇的な幕切れで愛知県代表中京大学中京高校が優勝しました。ちょっと自慢になりますが、中京大中京が愛知県予選決勝であたったのが、我が母校である県立刈谷高校です。

高校.jpg 

刈谷高校は、進学校にも関わらずサッカー部と野球部が、結構強いのです。私が中学3年生くらいの年、選抜高校野球大会に出場しています。

 

また、私が高校三年生の年は、夏の予選で準決勝までいきました。ベスト4には、後に巨人で活躍する槙原を擁する大府高校と、いまだに現役で活躍する工藤を擁する名古屋電気高校でした。結構、すごいでしょ。

 

 

今回の中京のように全国から優秀な選手を集めて強化する私立高校が強いのは、当然といえば当然です。でも、母校のように、そのようなことはできなくても、なぜか常にそこそそこ強い高校は、他にもあると思います。必ず三年で選手はすべて入れ替わるにもかかわらず。

 

もちろん監督の力は大きいでしょう。でも、それほど母校の監督が優れていたとも思えませんし、理由は他にありそうです。

 

 

それは、一言で言えば「伝統の力」ではないでしょうか。伝統とは、何でしょうか?

 

時代を経て受け継がれる、「勝つことに対するこだわり」とでも言えばよいでしょうか?一度、勝つことが当たり前になると、それを実現する行動が普通になります。もし、それを破るような行動を取れば、周囲(監督は当然のこと、他の選手、他の生徒、父兄、OBなど)からあらゆるプレッシャーを浴びせられます。

 

たとえ、言葉では浴びせられないとしても、無言の「空気」によって、圧力がかかるのです。こういった、空気の力は侮れません。人間はそれほど、空気に支配されるのです。それを、体現するのが伝統校なのだと思います。(これはいい空気の例ですが、もちろん悪い空気もあります。悪いほうが多いかもしれません)

 

 

企業組織でも、全く同じです。社員の保有する能力の差なんて、競争する企業間ではほとんどないに等しいと思います。素質の差ではなく、どれだけ能力を発揮させることができるかの勝負なのです。私も研修などを通じて、多くの企業に接してきましたが、いわゆる偏差値(出身大学で表現される)と実務能力の関係は、それほど大きくないことを実感しています。

 

もちろん採用で優秀な社員を獲得することも重要ですが、それよりはるかに入社後の人材開発の重要性の方が高いことは、もう明らかでしょう。ただし、人材開発には、好ましい「空気」の醸成も含まれるべきですが。

 

 

 



 

 

 

 

能には、地謡といういわばコーラス隊が付きます。一列4名で二列並び地謡.jpg、舞台に向かって右側に、舞台側(脇正面側)を向いて座ります。この中のリーダーを地頭といって、後列右から二番目に座ります。(オーケストラのコンサートマスターは、最前列に座りますので、逆ですね。)

 

また、舞台後方には、後見といって、シテの服装を直したり、道具を片づけたりする人が二名座ります。単なる黒子と違って、シテの台詞の間違いを正したり、シテにトラブルが発生したりした場合の 後見.jpg代役も務めることになっています。従って、弟子ではなく、シテと同等かそれ以上の演者が務めます。

 

このように、能では、実力者が後ろにまわって支える構造があるようです。

 

私はこれまで、地頭の前で謡うような機会はありませんでしたので、なぜ地頭は前ではなく後ろにいるのだろうと、少し疑問でしたが、その機会が一昨日訪れました。

 

 

一昨日の土曜日、観世九皐会の全国のお弟子さんの合同発表会に参加しました。といっても、東京における観世喜正師と長沼範夫師の両社中(弟子の集まり)合同(約30名)で、「高砂」を連吟(大勢で一緒に謡うこと)する舞台の末席に加わっただけなのですが。

 

私は4列ある中の、最後列に座りました。もちろん、実力順ではなく、苗字のあいうえお順です。さらに、私の後ろに両師が座り、地頭のような形でリードしていただきました。

 

後ろから聞こえてくる両師の声は別格で、まさに後ろから押しだされるような感覚に見舞われ、なんとか負けないように声を張り上げました。その時、なるほど地頭が後ろに座り、他のメンバーに勢いを与え押し出すのは、理に適っているなと実感しました。

 

きっと、後見の存在も同じで、シテは後ろに座っている後見の精神的支え(声こそ出しませんが)を感じて、安心して舞うことができるのだと思います。

 

 

このように、先頭で集団をリードする欧米型のリーダーに対して、後ろから集団を支え、押し出す日本型の「頭(かしら)」の存在は、興味深い気がします。

 

最近では「サーバント・リーダーシップ」という言葉もありますが、日本的な組織のあり方を、もっと肯定的に捉えて、普遍化することも必要なのかもしれません。

 

世の中検定ばやりです。漢字検定から始まって、京都検定くらいま47800529.jpgでは、新鮮さもあったのですが、いまや何でもかんでも検定で、どれだけあるか想像もつきません。正直言って、もう検定は結構という印象でした。

 

 

検定はうけるものとしか考えませんが、検定試験を作成する立場になったと想像すると、また違った世界が見えてきます。

 

ある企業で、内定者向け研修として、「自分検定」をそれぞれが作成し、他の人に回答してもらうというプログラムを実施し、好評だったそうです。

 

作成者は、まずどんな問題を出すかを考えねばなりません。それが、自分自身を考える上での主要テーマになります。そして次に、正解を含む選択肢を5つ用意します。自分のことなので、正解は簡単ですが、他の4回答を用意するのが、結構難しいそうです。それなりに、ありそうな答を用意する必要があります。つまり、自分はAだけど、BEの可能性も十分ある。そういう、回答を用意するのは、意外に難しい。

 

このプロセスは、社会の中における自分自身を考えるプロセスになっているのです。自分自身を他者の中で相対化する作業です。きっと、内定者にとっては、貴重な自己認識の経験でしょう。また、もちろん他者の理解にも有効だと思います。

 

 

また、他の会社では、若手社員に「自社の経営理念検定」を、研修として作成させたそうです。明文化された経営理念を説明するだけでなく、経営理念に即した行動や判断を択一で選ばせる試験です。そのために、社長にインタビューしたり、他社の経営理念を調査したりもしたそうです。

 

受講者自身の、自社の経営理念理解もきっと進んだことでしょう。そして、作成した検定試験を、実際に管理職に受検してもらったそうです。その結果は聞けませんでしたが・・・。

 

検定にも、いろいろな使い道があって、面白いですね。

イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワード氏が書き残している、以下の言葉が好きです。

 

「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は、説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は、心に火を点ける。」

 

教育の目的とは何でしょうか?決して、知識を付与することではありません。知識付与は、目的を達成するために必要な要素のひとつにしかすぎません。

 

教育の目的とは、生徒(社員)に、自分自身が持っている才能に気付かせ、それを追求する方向に仕向けることではないでしょうか。「好きなことを追求することが、才能を伸ばすことになるのだから、それをもっと突き詰めていいんだよ」と後押しすることが、火を点けることにもなるのだと思います。

 

旧来、学校教育にしろ、社員教育にしろ、社会や会社が要求する一定水準の能力を付与することが教育でした。しかし、今や、汎用的な一定水準の能力の重要性が、相対的に低くなってきています。社会や組織の成り立ち自体が変わってきているからです。「ゆとり教育」は、そのための方策だったのかもしれません。

 

 

そういう社会となると、難しいのは「火を点ける」やり方です。火が点く理由は、人それぞれで違います。Aというやり方で火がつく子供もいれば、それでは決して点かない子供もいるはずです。それを見極めて、それぞれの方法でアプローチできるのが、優れた教師なのでしょう。ロビン・ウィリアムス主演の「Dead poets society」は、そんなことを実感させる映画です。

 

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感情を持つ人間の「心」に作用させることが、そんなに易しいはずもありません。特に企業組織の場合は、短期の業績目標の達成という制約のもとで、中長期的にヒトを育てていかねばならないので、なおさらです。

 

 

解はありませんが、相手を理解し、そう相手を理解する自分自身を知ることから、火の点け方が見えてくるような気がします。

 

そして、その前提は、他者は自分とは必ずしも同じでないメカニズムで思考・行動しているのであり、そういう多様な人々がいることが社会や組織を強くしているのだとの信念を持つことではないでしょうか。

 

 

ところで、「火を点ける」というとき思い出すのは、(そのまんまですが)薪ストーブで火をおこす作業です。何度やっても苦労します。でも、やっているうちに、これって人間の集団作用と同じだなと感じることがあります。冬になったら、書いてみようと思います。

 

毎年この時期は、戦争関連のTV番組が続きますが、先週のNHKスペシャル  「日本海軍 400時間の証言」 (全三回)は、出色でした。

 

(以下、NHKHPより第一回の紹介文です)

太平洋戦争の開戦の鍵を握った大日本帝国海軍・軍令部。全ての基本作戦の立案・指導にあたり、絶大な権力を持った『軍令部』の実態は、資料が殆どなくこれまで闇に包まれていた。

「海軍反省会」。戦後35年が経過した昭和55年から11年間、海軍の中枢・『軍令部』のメンバーが中心となって秘密に集まっていた会合である。7080代になっていた彼らは、生存中は絶対非公開を条件に、開戦に至る経緯、その裏で行った政界・皇族・陸軍などへの働きかけなどを400時間にわたって仲間内で語っていた。戦争を避けるべきだと考えながら、組織に生きる人間として「戦争回避」とは言いだせなくなっていく空気までも生々しく伝えている。

 

第一回のサブタイトルが、「海軍あって国家なし」でしたが、これは全回にわたって基調となっている言葉です。(2,3回のサブタイトルは、それぞれ「特攻 やましき沈黙」「戦犯裁判 第二の戦争」)

 

この番組を見て、戦中から続くこの体質が、途切れることなく現代に続いていることを痛感しました。そもそも、中枢にいたエリートたちが、その体質090811_b.jpgのまま戦後の日本復興を支えてきたのです。

 

「暴力犯の陸軍に対し、知能犯の海軍」とある参加者が語っていました。有名な東京裁判で死刑になったのは東条以下陸軍高官のみで、海軍高官は一人も死刑になっていないことを知りました。

 

役所の縦割り行政、企業の部門間の壁など、全体最適より部分最適を希求する日本の組織のオリジンを見た思いです。

 

では、なぜそもそも国家を守る機関であった海軍が、自組織維持を目的化するようになっていったのでしょうか?番組は、そこまで踏み込んでいません。

 

 

企業で考えてみましょう。A部門の社員は、A部門長によって最終的には評価されます。だから、A部門社員が部門の利益最大化を図るのは当然です。(もちろん会社全体のためという価値観は大切ですが、一般に価値よりメリットを重視するのです)

 

では、A部門長を評価するのは誰でしょうか?社長か、役員会(的な機関)でしょう。社長も他の部門長や役員も、同じエリートの「仲間」です。仲間を厳しく評価できません。なぜなら、自分にも火の粉が降りかかってくるかもしれないからです。

 

そして、空気としての不可侵条約が結ばれるのです。A部門はB部門と、社内で激しい競争を繰り広げている(予算獲得や昇進競争などで)かもしれませんが、最後は不可侵です。(裏での政治工作はあるかもしれませんが)

 

これは、企業を業界、部門を企業と置き換えても、ほぼ同じでしょう。

このようなインサイダーシステムには、組織外の視点が極端に少ないのが特徴です。つまり、それでも会社は潰れないで維持できるだけの好ましい環境にあったのです。

 

もちろん、現在環境は厳しくなっています。しかし、親方日の丸や規制によって守られている業界では、まだ継続を前提としたインサイダーシステムが生き残っています。

 

 

8/30の総選挙では、このような継続性やインサイダーシステムに、国民がどう判断を下すのかが問われているのだと思います。

前回、齢を取り賢くなることとは、自分自身を知るようになることだ、と書きました。自分を知るということは、裏を返せば他者も理解できるようになることだと思います。

 

 

よく、「相手の立場になって考えよう」とか、「相手がどういう人なのか理解しよう」といいます。コミュニケーションの基本中の基本です。特にマネジメントの仕事をする際には、重要です。

 

 

しかし、仮に相手の立場に立って考えたとしても、その人と同じように考えることができるでしょうか。立場が共通であれば、同じように考えられることも多少はあるかもしれません。でも、現実には、多くはたとえ立場が同じでも、異なる考えをするのが人間なのではないでしょうか。

 

それから、「相手がどういう人なのか」は、どのように認識できるのでしょうか。たまたま、その人が信号無視したところを目撃したからといって、「あの人はルールを守らない人だ」と認識していいものなのでしょうか。

 

つまり、他者を認識する際、ある断片だけを捉えて、拡大解釈、あるいは曲解することが非常に多い気がするのです。

 

もちろん、非常に長い時間を一緒に過ごせば、かなり深く理解できる可能性はあります。しかし、だからといって、同じ職場にいる程度であれば、難しいと思います。

 

そもそも、ある人間を正しく認識するとは、あまりに抽象的です。いい人か悪い人か、

親切か不親切か、仕事が早いか遅いか、など、切り口は無数にあります。きっと、状況に応じて、便利な切り口を拾い出すのでしょう。そして、その印象は、他の場面にも適用される可能性もあります。イメージが固定化されてしまうので。

 

 

そうなると、やはり人間を理解する上でのフレームワーク、というかパターンのようなものが欲しくなります。できるだけバランスの取れた、科学的に信頼性が証明されている指標のようなもの。

 

日本で、最も使われる指標は、血液型に違いありません。「あなたは何型ですか?」と聞けば、何となく相手を理解できた気がしますし、共通の話題としても適当です。ただ、科学的根拠は全くないそうです。

 

同質を前提としていた過去のマネジメントでは、人間理解のフレームワークなんて、そもそも必要なかったのでしょう。しかし、近年急速に状況は変わりつつあります。

 

多様性のマネジメントの重要性が叫ばれる昨今、自分を知り他者を知る共通言語となる指標のニーズが、今後さらに高まる気がします。それが、自分の成長に、さらに他者とのコミュニケーションに大きな役割を果たすと思います。

学問としての教育学の対象は、子供であることがふつうです。でも、教育は子供にだけ必要ではなく、我々大人にも必要です。

 

それに対応するもののひとつが、「企業内教育」でした。そのベースには、「社員は子供と同じように、職務に必須の知識やスキルを修得しなければならない。だから、教育する。ただ、子供と違って素直じゃないから、少し工夫が必要。」という考えがあったように思えます。特定の会社という環境に属す大人を教育するということです。

 

学問の世界では、大人の教育を重視してこなかったため、企業内教育の理論化は、それほどなされなかったというのが実態でしょう。もちろん、労働者の生産性向上の方法論は、研究され進化を続けました。

 

その後、企業内では、他者が意図を持って教える「教育」では、足りなくなってきました。「教える」とは、教えるべき正解があって、それを提供することを意味します。ところが、だんだん教えるべき正解がわからなくなりました。過去の知識や経験が活きなくなったのです。

 

簡単に言えば「教える」ではなく、「学び」をいかに促すかに、焦点が移っていたわけです。そこでは、教えることをベースにした教育論では、なかなか役立ちません。

 

教育と学びは、ひとつのものを表裏から見た関係ともいえます。でも、基本的には、主体が教育者(教師)で、客体が学び手(社員)。これからは、学び手を主体とすべきです。そして、学び手とその支援者の関係をどう築くかに知恵を使います。

 

つまり、企業組織内に「学び」の仕掛けを組み込み、社員が自律的に学ぶことを支援することが必要なのです。

 

 

「教える」パラダイムで、教える人の技術を高めることを目的にした「教育学」から、「学び」のパラダイムで、学びを必要とする人が、自律的に学ぶ技術を高めることを目的にした「学び学?」(いかに学ぶか)とそれを組織内にシステムとして組み込む技術(これは多分にビジネスの世界でのエンジニアリングに近い)を併せ持った「ラーニング・エンジニアリング」(勝手にそう呼んでいます)が今必要なのだと思います。そのような理論化もまだまだ途上でしょう。

 

教育のパラダイムを脱した新しいパラダイムを、企業の人材開発部門と「学び」の専門家が一体となって構築する時がきているのではないでしょうか。

人事の世界を、大きくはハードHRとソフトHRに分けることができます。ハードHRとは、人事制度、評価・報酬システムなど主に制度やルールで、社員の人事管理を行うものです。一方ソフトHRは、主に能力開発、研修、企業理念など社員のスキルや意識にはたらきかけ、個人や組織が好ましい姿になることを支援するものと言えるでしょう。ひらたく言えば、人事部門と人材開発部門といってもいいかもしれません。

 

 

先日お会いした、ある企業の人材開発センター長が、「両者の違いは、性悪説に基づくか、性善説に基づくかだ。」とおっしゃったのが印象に残りました。

 

その会社も、以前は人事部門と人材開発部門は同じ組織にあったそうですが、根本的な思想が合わず、分離したのだそうです。

 

確かに、人事制度を構築する際、「社員が怠けないように、どんなルールを作ろうか」という考えがベースにあるような気がします。少なくとも、制度を悪用する社員が出ないように詳細を詰めることは間違いないでしょう。

 

一方、人材開発を企画・設計する上では、「どうすれば、社員がもっと活き活きとし、、成果が上がるようになるだろうか」とまず考えるのではないでしょうか。ベースには、うまく環境を整え刺激すれば、本来持っている能力を発揮してくれるとの前提があります。

 

 

非定型業務主体で創造性が求められるナレッジワーカーを対象とすれば、「最後の砦となる人事制度で規律を」求める人事と、「自律性を促し、創造の支援をする」人材開発との間に、コンフリクトが生じるのは当然です。

 

 

とはいえ、大きな流れは「人事管理から人材開発」と言って間違いないでしょう。個の能力を解き放つ人材開発の重要性は、ますます高まっていきます。

 

このような状況のもと、経営陣や社員の期待に人材開発部門が応えていけるかどうか、まだまだやるべきことは多いと言えるでしょう。

 

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