組織の能力: 2009年2月アーカイブ

当代の名人、柳家小三治師匠を約三年間取り続けたドキュメンタリーです。落語という芸の神髄、間の本質、師匠の芸への取組姿勢、兄弟弟子入船亭扇橋との枯れた友情、など、ははーんと唸るところ満載ですが、あえてやはり師匠と弟子の関係について考えてみたいと思います。

 

小三治.jpg 

弟子の三三(さんざ)の真打昇進が決まり、師匠と二人で慣れないインタビューに答えていました。

 

インタビュアー「師匠の稽古のおかげですね」

三三:「師匠には、一度も稽古をつけていただいたことはありません。」

横の師匠は、当然という顔をしています。

 

インタビュアー「二ツ目の名前のままで真打昇進ですね。三三という名は、かっこいいですよね」

師匠「かっこいいとしたら、名前がそうなのではなく、こいつがそれだけのことをしてきたということだろう。クソみたいなやつが名乗ればクソみたいな名前になるというものだ」

インタビュアー「もし、三三が変えたいと言ってきたらどうしました?」

師匠「三三は一番いい名前だと思ってつけた。変えないで昇進してくれて、ありがたいと思う。もし、変えたいと言ってきたら、本当に困っただろうなあ」

 

 

師匠の独演会に、弟子の禽太夫を前座として同行させました。前座が終わり、禽太夫は、出来映えに満足できず楽屋に戻ってきました。そして、モニターで師匠の高座を聞きながら、自分の着物を畳む。その表情には、悔しさと情けなさと申し訳なさなど、なんとも言えない表情でした。

 

ある日の楽屋。師匠は、これまであまり取り上げたことのない噺「鰍沢」をこれから演じます。黙々と自分で書いた噺のメモを目で追っています。その隣の部屋、といっても襖は明け放たれた続きの間では、弟子たちはバカ話に盛り上がっています。しかし、師匠が高座に上がると、弟子たちは食い入るようにモニターに集中しています。

 

楽屋で弁当を食べた師匠は、御手拭きでテーブルを拭きながら、

「知らず知らずに拭いている。これが、柳家なんだねえ。みんなそうだ」

 

 

師匠が、語ります。

「歌手にとって、楽譜は手段だ。物書きにとって、文字は手段だ。どっちも必要なのは心だ。心を表現するために、楽譜や文字があるんだ」

 

 

師匠は、観客に対してだけでなく、弟子に対しても心をストレートにぶつけているのでしょう。心は愛情と言い換えてもいいかもしれません。曇りのない心で接していれば、稽古などつける必要はないと言いたいのかもしれません。心に応えて、弟子が勝手に学ぶと。

先日eラーニングと集合研修のブレンド型について書きました。http://www.adat-inc.com/fukublog/2009/02/e.html

eラーニングが登場したのは、そもそも時間と空間に縛られず学習させたい、しかも学習者の進捗管理などきめ細かくしたい、というニーズからだったと思います。

 

時間と空間の自由度から、学習及び研修を整理してみたいと思います。時間の自由度とは、いつでも好きな時に学べるかどうかですね。また、空間の自由度とは、特定の場所に出向く必要があるかどうかです。

 

そうすると、二軸のマトリクスができます。さらに同心円を描き、内側ほどインタラクティブ性が高いことを表します。(図 参照)

時間X空間jpeg.jpg 

OJTを中心としたⅣ象限は除くとして、一般にⅢ、Ⅱ、Ⅰの順で、そして内側から外側の順で効果は高いと考えられます。しかし、その順でコストも高くなるはずです。そして、企業はコストと効果の見合いで、学習の手段を選択していくわけです。

 

ある特定テーマ修得のために、単純にある象限とある象限の手法をブレンドつまり組み合わせて、双方のいいところを取るということは、時に必要かもしれません。ただ、それでは効果と効率が単に平均化されるだけでは、あまり面白くありません。

 

それよりも人材開発担当者は、

    状況やテーマによって、手法を賢く使い分けられるような選択眼を高める

    既存手法で効果最大化すべく、学習者への「働きかけ」を練る

    eラーニングやWBTを内側にシフト、すなわちインタラクティブ性を高めるようにテクノロジーの進化を促す

 

という方向を目指すべきではないでしょうか。

 

今朝の日経新聞にこんな小さな記事がありました。

 

「機械商社の日伝は2009年度から、新入社員の研修期間を従来の倍の五カ月に延ばす。景気後退による仕事量の減少を逆手に取り、講師役も外部の専門家から社員に切り替える。(以下略)」(日本経済新聞 09/2/16朝刊)

 

景気が悪くなると、利益をすぐに生まない研修費用は真っ先にカットされるというのが、これまでの常識でした。しかし、今回はそれとは少し異なる対応を取る企業が増えているように感じます。

 

先日も、あるSIベンダーの社長からこんなことを伺いました。

「昨年夏までは、人手不足で満足な教育もできなかった。それが一転、急に受注が激減した。契約終了で、SEが続々と現場を離れてきている。こんな時こそ、これまで手が回らなかった教育に力を入れる。もちろん、直近は苦しいが、いずれ景気が回復した時に、今の教育が必ず生きてくるはずだ」

 

仕事がないのだから社員を減らすべきと考えるのが、株主重視の経営かもしれません。しかし、人材を資本と考える企業では、投資の好機と捉えます。それは、評価期間を、四半期とみるか5年以上と見るかで異なるとも言えるでしょう。

 

さらに、講師役も外部から内部へ切り替える動きが出てきています。それは、コスト削減効果だけではなく、教える側の社員の人材開発も期待しています。「教えること」以上に、効果的な学習方法はないからです。

 

また、研修という場を通じて、若手(受講者)と中堅(講師)との間のインタラクションが発生します。研修という場で講師を経験した中堅社員は、現場でのOJTのコツもつかむことでしょう。

 

研修で扱う内容も、どの会社にも通用する一般的なものから、自社にカスタマイズしたものにシフトしていくでしょう。そこでは、仮に講師が外部であったとしても、研修に関わる社員のコミットは深くなります。

 

つまり、この不況を利用して、組織内にインタラクションを巻き起こし、学習する癖を植え付けようという動きなのです。

 

こういった組織内ラーニングの設計を「狙って」実行できる企業は、必ずや景気回復局面で大きく飛躍することでしょう。

日曜日、大好きな文楽を聴きに行ってきました。演目は、「女殺油地獄」。文字通り油屋で、女が油まみれになって殺される、救いのない怖い話です。鬼気迫る緊張感を大いに楽しんできました。

 

私が文楽を面白いと思うのは、とても日本的な芸能だと感じているからかもしれません。まず、歌せりふを「語る」太夫がいます。その横に三味線が座ります。そして、舞台では人形遣いが人形を操るわけです。この三業が、それぞれの役割を果たしながら、他の二業と合わせていく必要があります。ただ、単に合わせるのではだめだそうです。たとえば、太夫と三味線は相手に合わせるのではなく、ぶつかりあい、せめぎ合わなければ観客に訴える緊張感は生まれてこないそうです。人間国宝の太夫、竹本住太夫はこう言っています。

 

「むしろ合わせにいったら絶対あきまへん。相手の顔色を窺ってたら、切っ先が鈍る。それぞれが鎬をOnnagoroshi2.jpg削るような、真剣勝負の舞台でなければ、お客さんの心に響かないんですよ。」

 

一方の人形遣いは、基本三人で一体の人形を操ります。メインは主遣いで、あと左遣いと足遣い。声を発せず一人の人間(人形)の整合した動きを微妙に表現しなければなりません。三人の息が合うと、人形遣いの姿は視界から消え、人形が人間以上に人間らしくなります。

 

このように文楽とは、自分の個性を出しながら、周囲との整合もとり、かつ火花を散らすようなぶつかり合いもし、それでも全体が一つの演目として完成されている、というなんとも微妙なバランスのもとでの擦り合わせの妙の芸術だと言えるのではないでしょうか。しかも、主導権は太夫にあるものの、指揮者のような役割はありませんし、三業揃って稽古することも、公演前の一度だけなのです。

 

また、おもしろいのは、舞台上で他の業によって自分の潜在能力が引き出されるという点です。例えば、若手の太夫がベテランの三味線と組むと、太夫はこれまで自分が到達できなかったレベルにまで芸を引き上げられることがあるそうです。さらに、観客からも力をもらうといいます。住太夫は、言います。

 

「お客さんのほうが興に乗ってこられる。その熱気に釣り込まれて、普段できなかったことがパッと演れてしまうことがある。そんな時は楽しいですよ。」

 

文楽って、日本の組織のありようと、とても似ていると思いませんか。日本の組織とは、単に自律した個人の集合体(合計した全部)ではなく、場すなわち演目に合わせて相互に影響を与えあっている柔らかいヒトの一座(全体)だという気がします。そんな理想の組織を、文楽を聴いて観ながら、味わっているのかもしれません。

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