経済学の基本中の基本は、できるだけ少ない投資(費用)でリターンを最大化することです。当たり前ですね。バブル期と小泉改革の頃の社会規範、つまり判断基準がまさにそうでした。その頃感受性を育んだ世代は、しっかりその規範を内面化しているのでしょうか。内田樹さんいわく、近頃の学生は学校選択も、勉強も入社する会社選択も、全て「賢い消費者」のごとく、最低限の出費で最大の価値を手に入れようと動するそうです。目指すは価値の最大化ではなく費用対効果の最大化、そうすると自ずと費用の最小化に流れるのが人情でしょう。経済合理性だけで、生き方や社会のつくりなどを決めてしまったらどういう未来が待っているのでしょうか。
経済の規範をそれ以外の世界に持ち込むことで、個人の成長、ひいては社会の進歩を妨げることになりかねないと思います。経済の規範は、基本的に自分の利益を最大化する合理的人間を前提としています。利己的個人といってもいいでしょう。まさに「賢い消費者」です。個人の利益最大化すなわち所得最大化のために、一所懸命勉強し仕事することが、個人の成長そしてGNP成長につながるというロジックです。
しかし、自分の欲望を満たしたいというエンジンでどこまで人間は頑張り成長できるのでしょうか。欲望に限りはないといいますが、そうは思えません。当然より多くの欲望を満たすには、その対価もどんどん増大していきます。増大する対価(時間、ストレス、不安など)による苦痛に対して、案外早く耐えきれなくなるのが普通だと思います(これは日本人特有かもしれませんが・・)。多くの人は、適当なところで手を打つに違いありません。従って、それでは個人も社会も、そこそこの成長しか期待できません。
ではどうするか。ホンダの久米元社長は同社飛躍の原動力となった、アメリカの排ガス規制(マスキー法)を世界で初めてクリアしたCVCCエンジン開発時の体験を以下のように語っています。(久米氏はプロジェクト

リーダーでした)
チームメンバーの休日どころか睡眠時間もどんどん削られていきます。そんなあるとき、「この排ガスの課題は先発メーカーと同じスタートラインに立つ絶好のチャンスだ」という、トップの激励ともとれる発言が、苦闘を続けるメンバーに何とも受け入れがたい反感を呼び起こしました。
「そんなことのためなら、もうとっくに家へ帰って寝てますよ。これは空気をきれいにしようという世のため人のための仕事じゃないんですか?」
(出所:「ひらめき」の設計図)
久米 是志
個人や会社の利益のためならここまで頑張れない。もっと大きなもののためだからこそ出るエネルギ―があるのです。もちろんメンバーに利己心がなかったわけではありません。でも、このレベルの高い目標を達成するにはそれでは不足です。世の中というようなもっと大きなもののためだからこそ創造性も発揮でき、それがメンバーを大きく成長させ開発も成功し、ひいてはホンダも成長できたわけです。
ここで疑問がわきます。なぜメンバーは、そこまでして「世のため人のため」に頑張ろうと思えたのか。トップが、これは世の中の役に立つプロジェクトだから寝ないで頑張れと激励したら頑張れたでしょうか。そう簡単な話ではないでしょう。人間には本来利他の精神は持っていることは間違いないと思いますが、どういうときにそれが起動するのか。つまり、個を捨てるきっかけは何か。昨年の大震災はそれだったかもしれませんが、事業活動において。
久米氏は直接それに言及していませんが、私はそれはこの開発チームが作り上げていった「場」の力だという気がしてなりません。「場」ではさまざまな個性、感情、知識が集まり、激しく相互作用を起こしていたことでしょう。そこでのダイナミズムが、目的の次元を自ら引き上げていったのではないでしょうか。久米氏はプロジェクトの初めの頃は、皆どちらかといえば利己的思いが強かったと言っています。「場」ができるに従って、自分と他メンバーとの境界が薄れ一体化していき、そしてさらにそれが進むと開発チームと会社との境界(会社の指令で動いているという状況)も薄れ、やがて社会との境界もなくなり社会と一体化していったのではないでしょうか。(宗教的高揚感との類似点もありそうな気もします)
このようなレベルでは、個人の費用対効果などどうでもよくなります。次元が違うのです。かつての日本企業では、こういう話はいくつもあったように思います。ところが、バブルの頃からか、先の学生ではないですが何でも費用対効果を基準にする傾向が強まり、その結果大きなジャンプができなくなってきているような気がします。世のため人のためじゃなく、株主のためじゃ力は出ませんよね。
そういう意味でも、昨年の大震災は日本を変えるきっかけになるのではと期待しましたが、まだ変化の胎動は見えてきません。