判断を留保する

政府から奨学金をもらって、ドイツに一年間滞在していた友人のアーティストが、任期を終え帰国しました。それで、先日、築地のお寿司屋さん(安くてびっくり!)に友人が集まって、帰国祝いをしました。

 

ところが、一ヶ月弱日本にいて、またドイツに戻るそうです。奨学金はもちろんなくなりますが、アーティストビザを取得でき、もう一年残ることに決めたのです。

 

 

それほど、ドイツの生活や制作環境が良いのだそうです。何が、そんなに日本と違うのでしょうか?

 

「ドイツでは、私はゴミじゃないの。日本ではゴミだったけど。」

 

彼女は、奨学金をもらえるくらい、日本でもある程度成功しています。ゴミなんかじゃありません。

 

「日本では、アート関係者以外の人と親しくなればなるほど、いやな思いをする。だんだん親しくなると、『それで生活できるの?』『いい大人が、好きなことをずっと続けていられて羨ましい。(暗に:世の中そんなに甘くない。いつまでも続かないよ)』みたいに、まるで、悪いことをしているように言われるの。もちろん、本人に悪気はないのはわかる。でも、それって、私にお前はゴミだって言っているのと同じ。」

綿引.jpg 

「ドイツでは違う。アーティストに対して、なんだか敬意みたいなものを感じる。だから、日本と違って、いろんなことがスムーズなの。私は、ここではゴミじゃないから。」

 

確かに、彼女は一年前より生き生きしているように感じました。のびのびと創作活動に集中出来ているのでしょう。それを見ると、どんな障害があっても、ドイツ滞在を延長するのは、当然に思えました。

 

でも、日本人の一人として考えさせられました。こうして、有能な日本人が一人日本から離れていく。

 

彼女が言うように、みんな悪気はないんです。親身に心配しているのです。なぜ、こうなってしまうのでしょうか。

 

私たちはどうしても、無意識に区別して判断してしまう習性があるようです。そして、自分とは違うと判断すると、自分を守るために無意識に修正を迫るか、排除に向かう。

 

 

よく、「多様性を受け入れよう」というスローガンを耳にします。でも、「受け入れる」という行為は、具体的にどういうことなのでしょうか?

 

私は、まず「判断を留保する」ことではないかと思います。でも、それはなかなか簡単ではありません。判断をするのではなく、相手の言動の背景にあるものを推測する。そうすると、何となく相手が理解できるような気がします。

 

 

世の中、「論理的思考力を高め、合理的に判断をできるようにしよう!」という風潮があります。でも、あえて判断を留保することを学ぶことも重要なのではないでしょうか。

 

 

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このページは、福澤が2009年10月 1日 13:06に書いたブログ記事です。

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