仕舞の舞台に立つと、信じられないことが起こります。普段の稽古では失敗したことがないことを本番で失敗したり、途中で頭が真っ白になってしまうことさえあります。
一方で、うまくいった時は舞台を降りた後で、自分がどう動いたかをほとんど覚えていません。だから、本当にうまくいったのか確信がないのですが、仲間はそう言ってくれます。逆に、失敗したときには、その時の情景をくっきりと記憶しています。だからつらいのです。
こういった現象は私だけではなく、話しを聞く限り、他の人にもほぼ同じように起きるようです。
なぜ、こうなるのかずっと考え続けてきましたが、最近そのヒントらしきものに辿り着きました。それは、「意識」の働きによるという仮説です。
20世紀末から脳の研究は各段に進歩してきています。それによると、人は意識をしてから行動するのではなく、(無意識に)行動の選択がなされた数百ミリ秒後にそれを自覚(意識)して行動することが多くの実験により証明されています。つまり、意識を過大に重視すべきではない。
仕舞の稽古では意識を重視しています。伴奏ともいえる謡を聞き、詞章のこの部分であればこの動きだというように、言語と行動をセットで記憶するように稽古しています。そして、そのタイミングが少しでもずれると、動きを修正するように意識します。
失敗するときは往々にして、ずれを認識しそれに修正をかけようと意識するときです。その後に、頭が真っ白になってしまうことが多いように感じます。つまり、強い緊張のもとでは、意識が立ち上がると本来できる体のはたらきを覆い隠して、できなくしてしまう。意識とは、妨害電波のようなものではないでしょうか。だから、うまくいった時は意識が立ち上がっておらず、その結果記憶があまりない。意識とは邪念や煩悩の親戚のようなものかもしれません。
そこで、能舞台上にひとりで立ち、通して舞う稽古の時、出来るだけ意識を立上げないように努めてみました。普段、どうしても動きを忘れてしまうのが怖いので、ついつい次の動きを考え用意しようとしてしまいます。それをしないようにしました。それができるようにするために、地謡の謡(うたい)を聴くことだけに集中するのです。他のこと(次の動きとか)を一切考えないで、謡に体を全て晒すイメージです。そうすると、意識ではなく体が勝手に舞台という空間の中を動いていくような感覚で、仕舞を終えることができました。意識は最小限だったと思います。稽古では意識しても、本番では意識を消す。
話題の本「ホモ・デウス」にこういう記載がありました。米海軍は兵士の脳に電気的刺激を与えることで兵士の感覚をコントロールする実験を続けており、「ニューサイエンティスト」誌の女性記者がその取材を許されました。記者は、狙撃兵の訓練施設を訪れ、戦場シミュレーターに入ります。巨大なスクリーンに銃を持つ敵が次々と現れ攻撃してきます。それを打ち殺していく。
記者はこう振り返ります。
「なんとか、一人撃ち殺すたびに、新たに三人の襲撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった。」
次に脳へ電気信号を送る特殊なヘルメットをかぶり、同じことを繰り返す。すると、先ほどと打って変わって落ち着き払い、次々と敵を打ち殺すことができた。しかも時間を感じなかったという。記者はその体験をこう語ります。
「愕然としたのは、生まれて初めて、頭の中の何もかもが、ついに口をつぐんだことだった・・・自己不信と無縁の自分の脳というのは新発見だった。頭の中が突然、信じられないほど静まり返った・・・(中略)私の心には怒りと敵意に満ちた小鬼たちが住みついていて、私を怖がらせて、やりもしないうちから物事を諦めさせてきたけれど、やつらを別とすれば、私は何者だったのか?そして、あの声はみな、どこから聞こえてきていたのか?」
私が謡に身を任せて意識が立ちあがるのを防いだのと、記者が特殊なヘルメットをかぶったことは、脳の神経作用の上では同じようなことだったのかもしれません。スポーツの世界で語られる「フロー」も同様とも思えます。
米海軍の実験という事実に薄気味悪さを感じますが、私の仮説を裏書きするようなものであり、いささか心強くもあります。
理由が分かれば対応もできる。もうすぐ、舞台本番です。稽古で一度だけ体験できたことが、本番でも実現できるのか、怖くもあり楽しみでもあります。
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