教養とは何か

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雑誌などでビジネスマン向けの教養特集などが組まれるようになって、だいぶ時間が経ちました。最近は欧米人と深く付き合うには西洋美術の知識が必要だとして、その手の本も売れているようです。

 

教養とは豆知識みたいなものなんでしょうか?大澤聡氏は、最近ブームの教養を指して「知的サプリ」と言っています。

 

そのO大澤氏が三人の碩学(W鷲田清一、T竹内洋、Y吉見俊哉)と対談した「教養主義のリハビリテーション」(筑摩書房)が面白いです。さしあたり鷲田さんとの対談から、気になる言葉を備忘録として抜書きします。

 

 

 

哲学とは理論の発明ではなく発見。人びとの暮らしの中で生きられている大切なものを発見する。そして、言語化する。W

 

一見遠く離れたもの同士が、実は同じ構造に支えられていたり、同じ要素を抱えていたりする。それを発見することも教養でしょう。O

 

優れたデザインには、人をパッシブにしないという特質がある。・・・優れたデザインが備えている要素にはあと二つあって、そのひとつが多義性です。・・・・良いデザインはなにが起こるかわからない方向に開かれている。・・残るひとついは批評性です。W

 

臨機応変に意味や機能を組み替えることができるのも教養です。O

 

少し変形してその文脈に接続させる、これも教養のひとつのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。O

 

理論がそのまま通用しないような場所こそが「現場」と呼ばれてきました。W

 

現場的教養は、OJT的にその都度臨機応変に対応していく中で獲得されるメチエの集合体のようなものですね。その意味ではボトムアップ型。・・場数が増えるほど裾野が広がって、その分上に向かう力も高まる。そのときに考えないといけないのは「総合」のモメントでしょう。O

 

我々が直面している問題の大半は答えがでません。少なくとも一義的なソリューションはありえない。そこで、「問題」と「課題」を分けて考える必要があるんじゃないでしょうか。ここでいう問題は解決されるべきもののこと。なくなるのがいい。それに対して、課題はだれにも事態を解消することができない。決定的な解決策はない。もっとも基盤的な次元において解決の道筋がすぐには見えない、そんな難問を突き付けられている。けれど、取組み続けなければならない。その取組自体に意味がある。W

 

諸学問の連関のマップをまず頭に入れておいて、それから個別の議論に入っていく。まさに一般教養のプロトタイプですよね。・・その可能性のひとつが「現場的教養」と「対話的教養」の組合せです。それぞれの現場から立ち上がってきたメチエを対話の中でつなぎあわせていく。そういうネットワーク的な教養がありうるのではないか。O

 

詩や思想書を読む中で、自分とは全く異なる感受性や思考に触れることによって、それまで自明だと思っていたことがぐらぐら揺さぶられる。自分の前提や基盤が不明になっていく。そういう経験が読書にはあります。W

 

読む前と読んだ後とで自分の組織が再編される。その結果、周囲が異化されてそれまでと違ってみえる。O

 

教養がある人とは、たくさんの知識を持っている人という意味ではありません。そうではなくて、自分(たち)の存在を世界の中に空間的にも時間的にもちゃんと位置づけられる人のことを指しています。つまり、自分を世界の中にマッピングできるということ。そしてこの世界を平面ではなく立体で捉える。・・ひとつの対象を複数の異なる角度から観察するということです。W

 

そこで、自分とは異なるタイプの思想家なり作家なりの本を読むことが重要になります。著者との対話を通してこそ、思いもよらなかった補助線をいくつも引くことができるようになる。そうした補助線を獲得することをとりあえず教養と考えるといい。W

 

昔も今も教養のポイントは自分でコンテクストを編むことにあるのかもしれません。僕たちは歴史的な存在です。コンテクストの中にいる。ところがそのコンテクストは見えない。自分なりにマッピングするということは、とりも直さず、なぜ自分がこういう存在なのかを知るということですね。・・自分のメンタリティのバックグラウンドが分かると自己変革のきっかけにもなる。W

 

教養とはまさに自由になるための術です。自由と言うと、自分を様々に絡め取ってくる制度から解き放たれるようなイメージがありますが、僕は自由とはむしろ自分が生きていく上でのコンテクストを自ら編んでいけることだと思います。W

 

ところがアートにはそうした目標がないんですよ。・・とにかくわくわくすることをやりたい。その「わくわく」のイメージが互いに違っているから、アイデアを出しあって、ああでもないこうでもないと議論をしながら形にしていく。そして、最後に「これだ!」というものができる。これって多文化共生社会そのものじゃないですか。価値観を共有しないままでもみんなで一緒にやれるのがアートなんですよね。・・素手でやっていくということ、そして価値観の共有を前提にしないで生活のコンテクストを編んでいく能力。これからの社会にとって最も大切な能力でしょう。W

 

前傾姿勢で走り続けるあり方に限界が来ている。その時々の関係性のネットワークの中で、「いま・ここ」をどう組み直すかを判断していかないといけない。ゴールが流動化した時代には、教養も別のモデルを用意しないといけない。さらにそのとき、「わくわく」がそこにあるといい。O

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)
大澤 聡
448001666X

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このページは、ブログ管理者が2018年6月19日 11:19に書いたブログ記事です。

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