ヒトは安易にラベルを貼り理解したつもりになって、それを前提として様々思いや思考を発展させるものです。ラベルを紋切型(ステレオタイプ)に貼ることで、善悪、損得といったようにばっさばっさと二分し、どちらかに決めていきます。認知エネルギーを最小化するために、人類に備わった能力といえるでしょう。
しかし、得てしてそれは間違う。世の中に絶対正しいとか絶対に得といったものはありません。でも、それを知っていてもどうしてもラベルに頼ってしまうのが人間。そのことに気づかせてくれる機会は、とても貴重です。私にとって映画は、その貴重な気づきのツールなのです。
さて、カンヌでパルムドールを取った 「万引き家族」は、まさにそういった映画でした。映画で描かれた、思い込みを揺さぶる問いかけをいくつかあげてみましょう。(上段が常識で、下段は映画で語られる別の見方)
・他人の子どもを黙って連れ出して一緒に暮らすことは誘拐犯罪である
→虐待された子供を保護しただけで、身代金も要求していないから誘拐ではない
・子供に万引きの仕方を教えてはいけない
→子供が生きていくために必要なことで教えられることは万引きくらい
(刑事にそう語る彼の気持ちを想像してみたい)
・死んだら届けて葬式をあげ、火葬しなければならない。勿論年金も停止
→生前世話をしたのだから、法的家族でなくても死後も年金を代わりに遺族年金として受け取っても構わない。そのためには死亡を届ける必要はない
・老人が死亡しても届けず年金を代わりにもらい続けていたということは、カネ目当てで老人と同居していたということ。そこに愛情や絆などない
→当事者である老人が望んでいた。お互いにつながりを感じていた
・愛情とお金のやり取りは同時には成立しえない
→愛情とおカネの交換が明示されておらず、かつ双方が暗黙の了解をしているのであれば成立しうる
・子供が二ヶ月も失踪したにも関わらず、捜索願を出さないということは、両親が子供を殺したからに違いない(マスコミ目線)
→子供を虐待していたから、それがばれるのが怖くて届けられなかった
・子供は学校に通って勉強しなければならない
→「学校とは家で勉強できない子供が仕方なくいくところ」
他にもたくさんあります。
最後の学校の話は、小学校に通う同じ年頃の子供をみて、男の子(息子相当)が語る台詞です。彼は本が好きで、実際に家で教科書を読んで勉強しています。
事件が明らかになった後、尋問する若い刑事に、彼は問います。「なんで、学校に行かなければならないの?学校でしかできないことって何?」
刑事は一瞬いい淀み、「・・・友達と絆を結ぶことかなあ」(記憶曖昧ですが)と自信なさそうに応えます。いじめ問題が途絶えない現在の学校は、果たして友達と絆を結ぶところと言い切れるでしょうか?そう思っているのは、そう思いたい大人だけかもしれません。その方が、都合がいい。
こうした大人のご都合主義による常識や思い込みに、疑問を投げかけ続けることに、この映画の価値があると思います。
家族って何だろう?法律ってなんだろう?マスコミやそれに従う大衆って何だろう?学校ってなんだろう?この先には、政府や国家って何だろうという問いかけも用意されている気がします。だから、文部科学大臣がパルムドールを取った是枝監督に会って祝福したいとの申し出を、監督は以下のコメントを出して断ったのだと思います。
「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」
立派ですね。芸術家はこうあるべきだと思います。
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