「リアル」とは

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「リアル」とか「リアリティ」という言葉は、何を意味するのでしょうか?自分の眼に見えたものそのものが「リアル」なのだと、笑い飛ばされそうですが、本当にそうでしょうか?

 

カエサルが、「人は見たいものしか見えない」といったらしいですが、その通りだと思います。見えたからといってそれがリアルとは言えないですし、見えないものにリアルが宿ることもある。つまり、厳密に言えば、人は眼(網膜)で見るのではなく脳で見るのです。(これには最近の脳科学の研究で、様々な検証がなされています。)

 

先日、能「放下僧」を観ました。兄弟による父殺しの犯人への仇討ちがテーマです。路上で面白おかしく歌や踊りを披露する大道芸人(放下)に化けて、諸国を歩きまわり、やっとのことで仇を見つけます。兄弟はコミカルに謡い踊りながら、陣笠を深くかぶり用心する仇に少しずつ近づきます。コミカルな謡や踊りとかたき討ちがせまる緊張感のコントラストが、否応にも見物(観客)の気分を高めます。黒澤明の映画のようです。

 

しかしその瞬間、仇は陣笠をその場に置いて、ゆっくり舞台から去っていきました。慣れない見物は、きっと仇が気付いてこっそり逃げたと思ったかもしれません。

 

そして、残った陣笠に近づいた兄弟は、本当に一瞬の動きで置かれた陣笠の辺りに斬りこみました。殺気が感じられました。斬られる仇は実際にはそこにはいません。しかし、陣笠が仇の象徴となり置かれ、兄弟は「リアル」にはいないが、そこにいる(はずの)仇を斬り捨てたのでした。私には、ものすごいリアリティを感じました。斬り捨てられた仇の姿が見えたのです。

 

もし、普通の芝居のように仇役の役者がそのまま舞台に残り斬殺されたとしたら、どう見物には見えたでしょうか?斬られ断末魔の声をあげる役者にリアリティを感ずるでしょうか。多分、あまり感じないと思います。これが能独特の引き算の表現です。

 

能は、人は脳で観ることを熟知してつくられています。だからシンプルなのにリアルなのです。

 

芸術の多くは、つくり手の想いや感情、美意識を、何らかの媒体を使って「形」にします。絵画や彫刻であったり詩であったり演劇であったり。いわば膨大な想いを圧縮して、鑑賞者に届けるわけです。鑑賞者はそれを自分の脳の中で解凍して、つくり手の想いを受容する。こうしたコミュニケーションが、つくり手と鑑賞者の間でなされるのです。

 

このような関係性は芸術だけに限りません。人と人との間には、常にこの圧縮-解凍が繰り返されています。「リアル」とは、圧縮-解凍のプロセスで再現されることに対して捧げられる評価なのかもしれません。

 

リアルを感じるには、それなりの能力が必要だとも言えます。

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このページは、ブログ管理者が2018年5月16日 10:23に書いたブログ記事です。

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