現在ほど想像力の重要性が高いにも関わらず、それが理解されていない時代はないのではなあいかと思います。技術の進歩とは、人間が想像力を持たなくても生きられるようにするためにあるかのようです。技術の進歩が想像力を失わせ、そのためさらに技術が進歩していくというサイクル。
現在来日中のスピルバーグ監督が、映像クリエイターを目指す若者向けトークセッションで、「想像力はオンラインで買えるものではなく、皆が持っているものだ。想像力に対して心を開き、そこから物語が浮かんだら、それを書き留めて欲しい」と助言したそうです。
これは創る側だけでなく、観る側にも響くメッセージだと思います。
ところで、昨日、能「西行櫻」を観ました。言うまでもなく能は、観る者の想像力を必要とします。それがなければ、板の上でおかしな面をつけた老人が、よろよろ動いているとしか感じないでしょう。しかし、想像力によって、舞台はいか様にも変化します。
最後の場面です。
夜が明け初める頃、西行の夢も醒めつつあります。そして、西行とまみえた老櫻の精(シテ)は夜明けとともに消えていきます。
シテ 「花の影より。明け初めて。
地謡 「鐘をも待たぬ別こそあれ。別こそあれ。別こそあれ。
シテ 「待てしばし待てしばし 夜はまだ深きぞ。
地謡 「白むは花の影なりけり。よそはまだ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。
シテ 「夢は覚めにけり。
地謡 「夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。花を踏んでは同じく惜む少年の春の夜は明けにけりや翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし。
老櫻の精は、嵐や雪によって散ったかのような一面の櫻の花びらの上を、ゆっくり惜しみつつ歩きながら少しずつ透明になり、最後は消えてみえなくなる。その歩き消えゆく姿に、老櫻の精がまだ少年だった頃の姿が重なる。
このラストシーン、私にはそう観えました。観る人によって、きっとそれは異なることでしょう。しかし、確かに私にはそう観えた。
数十年の時間がそこに一瞬照射される。人間の無常観を見事に表現している傑作だと思います。演者の力はもちろんですが、言葉の力もすごい。
本当の芸術作品は、観る者になんらかのメッセージを直接与えるのではなく、間接的な刺激を与えることで観る者の内面にあるものを浮き上がらせるのだと思います。スピルバーグ監督が言った「想像力は皆が持っているものだ」との意味は、そういうことなのかもしれません。
しかし、日々の雑事にまみれて、人は内面の何か(想像力と呼んでもいいかもしれません)を認識することも発露することもできなくなってしまっている。だから、ときどきそれを解放することが必要なのだと思います。私にとっては、それが能や芸術作品に触れることなのでしょう。
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