柔道家山下泰裕氏がインタビュー番組で、国民栄誉賞をもらった後、その重みで大変じゃなかったですか?と質問され、こう答えていました。
「まったく大変じゃありませんでした。私には4つの判断軸があります。人間として恥ずかしくないか、男としてどうか、日本人としてどうか、そして柔道家としてどうか。この4つですべて判断できます。国民栄誉賞受賞者として、という基準はないわけですから、一切影響ありませんでした」
うーん、さすが山下氏。まっとうで明快。では男として恥ずかしくないとはどういうこと?というような突っ込みをする気にはならない。彼の中には厳然としたものがあり、それは陳腐な言語化を寄せつけません。「人間は殺人をしてはいけない」と、同じくらいに。
こういう基軸がある人は強い。基軸がないと、その時々でさまざまな誘惑、欲望によって判断がぶれることになります。それで思い出したのが、西郷隆盛の以下の遺訓。
(遺訓三十条) 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
自分なりの基軸、それは多分に倫理的なものでしょう。倫理軸あることで、その人に明確かつ迅速な判断を促し、仮に失敗したとしても後に尾を引かせません。だから、困難な課題に立ち向かっていける。そして、精神的に健康です。
資本主義と倫理はトレードオフの関係ではなく、補完関係にあるものだとアダム・スミスは主張していました。日本政府、いや日本国民に今最も必要なのは、経済合理性を超える倫理感ではないでしょうか。問題の先送りとは、目先の合理性によって倫理をないがしろにすることです。原発問題しかり、財政再建しかり、年金問題しかり・・・・。
しかし、こんなことは数千年前から語り継がれてきたことに違いありません。つまり普遍的な考えです。しかし、普遍的な考えやモノは、えてして新規な考えやモノによって追いやられてしまう。普遍性を認識する能力が、劣化しつつあるのかもしれません。
小津安二郎監督作品「宗方姉妹」の中で、姉の田中絹代が妹の高峰秀子にこう言います。

「新しいものっていうのは、いつまでも古くならないもののこと。あなたが言う新しいものって、今年長かったスカートの丈が来年短くなるっていうようなことなの?」
高峰秀子は反論できず、この言葉が後々まで心に残っていきます。小津監督は、この作品で、これがもっとも伝えたかったメッセージかもしれません。
いつまでも古くならないものとは、普遍性を帯びたもののことだと思います。小津作品が世界中で未だに上映され続けるのは、内容が普遍的だからです。だから、何度観ても毎回新しい発見がある。
日本人は世界の中で特殊だと思い込みがちですが、そんなはずはありません。小津にしろ宮崎駿にしろ、浮世絵だって世界中で評価されるのは普遍性があるからです。
大事なのは、普遍性を見極めてそれをコンテクストの異なる人々に伝える能力です。そんな普遍的ネタは、まだごろごろその辺に転がっています。そう思うだけで、日本の未来は明るく見えてきますね。