自他が開きあって一体感を得る:主客合一

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よく一体感があるという表現を使いますが、一体感とはどのようなものなんでしょうか?今朝の日経に、認知行動療法研修開発センターの大野裕さんの講演に関するこんなコラムが載っていました。

 

(前略)話し始めてしばらくは緊張が続き、ろれつがうまく回っていないように感じる。ところが、不思議なことに、しばらく話していると次第に緊張が解けてくる。さらに、聴衆がうなずきながら聴いているのは目に入ってくると、次第に高揚感のようなものが湧いてくる。聴衆と一体になったような不思議な感覚だ。そうするとしれまでの落ち込みや緊張はどこかに消え去って、表情は穏やかになり自然と笑顔になってくる。まさに人の存在の力を感じる瞬間で、聴衆に話させてもらったという思いを強く持つ。(後略)

 

 

すごくよくわかります。さすがに認知科学の専門家、すごくご自分や周囲の状況を客観的に把握し描写されています。私も同じような感覚を抱くことがありますが、それをうまく表現できませんでした。

 

最初、緊張のあまり自分自身は「閉じた」状態になっています。聴衆も同様に「こいつ何を話すんだろう」とやや不安な状態。自分もその聴衆の不安感を受けとめるので、相乗効果となってますますうまく話せなくなります。こうなるとバッドサイクルに入ります。

 

ところが、必死で話すうちに「うまく話そう」とか「聴衆はどう感じているんだろうか」とかの意識が飛んでいきます。とにかく話すのに精一杯で、意識する余裕もなくなる。無意識が自分を支配するようになると、余計なことを考えなくなり話に専念できるようになる。すると、少しずつ聴衆の心も「開いて」くる。それを自分も感じることができるようになる。すると自分も心を「開」けるようになる。そうなれば、心と心が通じ合い一体感を得ることができるのではないか。今度はグッドサイクルが回りはじめます。「聴衆に話させてもらった」という感覚は、自分自身と聴衆の相互関係が活発になり、聴衆から言葉を引っ張りだしてもらうような感覚です。

 

西田哲学に「主客合一」という言葉があります。自分と対象が分離されていない状態ということでしょうか。近代科学の二元論とは異なる世界観によるもので、この講演時の一体感がそれなのかもしれません。

 

この「主客合一」(とりあえずそう呼びます)に入ると、自己と他者が同じ水の中に入っており、その中で自己と他者それぞれが溶け出し混じりあうイメージになります。あるいは、自分の呼吸と他者の呼吸が連動しており、いかようにもその場をコントロールできるように思えてきます。舞台に立つ卓越した芸術家は、まさにこの状況をすぐにつくりあげることができるのではないでしょうか。この感覚を一度でも味わうと、どんな苦労にも耐えてまた味わおうと思えるに違いありません。

 

研修の場面でもいま述べたような状態を何度も、客観的(つまり当事者ではないオブザーバーとして)に感じてきました。講師と受講者が見えない糸で繋がって、その「場」を全員でつくりあげているイメージです。

 

そういう場を観察すると、ヒトは近代科学で定義されるような「独立した個人」ではない、もっと相互依存する開かれた存在だと感じます。「人間」という単語が、「人」と「間」の二文字でできているのは的を射ています。「ヒト」は、人と人との相互関係があって初めて「人間」になるのです。日本人はそのことを古来より知っていた。考えてみれば、「個人」の概念が伝わったのは明治維新後であり、まだほんの150年しか経っていません。近代科学の二元論だけを依拠するのは止めた方がよさそうです。

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このページは、ブログ管理者が2017年12月 4日 11:07に書いたブログ記事です。

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