居心地のいい宿:あさば旅館

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先週末、もっとも気に入っている宿、修善寺あさばに泊まってきました。なぜそれほど気にいっているのか、あらためて考えてみました。

 

●一貫したコンセプトで統一された空間(場)

旅館の敷地に入った時点から、すべてが統一されています。私が感じるそのコンセプトは、「伝統と革新の融合」でしょうか。500年を超える歴史を誇る宿は、日本ではそれほど珍しくありません。あさばは、それを確実に守りつつ、その上に現代性をさりげなく加えているところが卓越しています。現代アート作家の作品と能舞台、李朝家具などが自然に同居しているのです。素晴らしいアート作品に、作家名やタイトルを記載したタグなど一切ついていません。それがあると体感は得られなくなることを知っているのです。

 

 泊まった部屋の床の間には、「大空」と墨書された掛け軸がかかっていました。驚きました。その書は今私が最も好きな画家である松田正平の書だったのです。まさか私の嗜好まで調べたわけではないでしょうが、旅館のコンセプトに共鳴する客は、松田の作品も好きなはずだとの確信があったのかもしれません。

 

 

●地元で取れるベストの食材を使った料理を、ベストの環境で食す

あさばの料理が本当においしいのは、地元で取れる季節の食材にこだわっているからでしょう。しかも、地元産の中で最良の食材を厳選し、考えられうるだけの手間をかけ、しかもその手間を感じさせずさりげなく調理しているプロの腕を感じさせます。料理そのものの味だけでなく器も素晴らしい。例えば日本酒の徳利は、これまた私の好きな九谷の磁器作家須田青華のものでした。

 

 夕食が絶品なのは当たり前として、朝食はもっと素晴らしい。朝食だけ食べに来てもいいくらいです。出汁巻卵は、出されてすぐには熱くて食べられませんでした。そのくらい最もおいしいタイミングで食べてもらおうと、調理場と仲居さんが協力しているのです。仲居さんに聞いたところ出来上がって一分以内に出すことを心掛けているそうです。調理場のすぐ近くの部屋でもないのに、どうやっているのでしょうか?

 

●快適さを徹底的に追及した仕掛け

泊まった部屋はこんなつくりです。廊下から引戸をあけると板の間の小さな玄関のようなスペースがあり、さらに引戸があります。その引戸を開けると1.5畳くらいの小上がりのような畳敷きのスペースがあり、その先の引戸を開けるとメインの8畳くらいの部屋があります。その奥は全面障子になっています。障子の先は一段低くなった縁側的な空間があり椅子が二客ならんでいます。その先はガラス戸で、屋外との境となっています。すぐ外は他の部屋と共通のテラスになっており、その先の池越しに能舞台があります。能楽堂でいえば正面席にあたるところに、泊まった部屋があるわけです。能舞台で能が演じられるときには、そのテラスに座席が並びます。

 

 さて、小上がりスペースを右に行くと障子があり、その先は洗面所。さらにその先の引戸の先にトイレがあります。洗面所の障子の手前下右側に小さな冷蔵庫とエアコンの吹き出し口が並んでいます。

 喉のために、寝室のエアコンを停止して寝ることにしています。しかし、小上がりにはエアコンのスイッチが見当たりません。直接布団を敷いた部屋には、小上がりのエアコンからの空気は入らないため、あえて集中管理しているのでしょう。夜中にトイレに立つとき寒くないようにと考えられているのかもしれません。実際に私は夜中にトイレに立ちました。ふすまを開けた先の小上がりは温かくほっとしました。そして、一つ目の障子を開けて洗面所に入り、さらにもう一枚引戸とあけてトイレに入り用を足しました。しばらくして、あれっ変だなと感じました。トイレも洗面所も寒くないのです。ほんわりとですが温かいのです。トイレも洗面所も室内には暖房器はありません。もちろんエアコンの吹き出し口らしきものもありません。なのに寒くない。小上がりにはエアコンの吹き出し口がありますが、障子と引戸はずっと閉じられていました。不思議だ?

 

 障子を開けたり閉めたりしているうちに気づきました。障子を閉めた際に当たる壁側の部分の木の色が少し周囲と異なることに気づいたのです。後で、新しい木を取りつけたのでしょう。よく見るとその部分は、三本の長細い木で構成されています。説明が難しいのですが、断面図でいえば凹と凸が接合されている構造です。ただし、ぴったりは接合されておらず数ミリスペースが空いている。つまりり、外側と内側では光は直接通しませんが空気は通ります。外から中を見ることはできないが、暖気は通るという仕掛けです。それが洗面所の入り口とトイレの入り口それぞれに設置されており、だから寒くなかったというわけです。その工夫と心配りに感動しました。

 

●作為するのではなく、そうなるように場を調える

暖気が通る工夫は作為と言えば作為ですが、もっと簡単に作為することは可能です。トイレや洗面所に小型ヒーターを置けばいいだけのことです。多くの旅館ではそうしています。この宿はそれを潔しとはしないのでしょう。出来る限り作為を排して快適にしたいとの意思が感じられます。

 

 到着後、一風呂浴びてガラス戸越しに能舞台を眺めていました。舞台手前の池の端に、まだ葉が出ていない小ぶりの木がありました。その木の枝に小鳥がとまりました。綺麗な色の鳥で、よく見るとカワセミです。川に飛び込んで魚を取るあのカワセミです。驚いてしばらくずっと見続けました。数分たったところで、突然カワセミは池に飛び込み、すぐV字ターンして飛んでいきました。一瞬のことで、魚を咥えているのかは確認できませんでしたが、水面下にもぐったのは確かです。まさか、宿の部屋からカワセミの漁を目撃できるとは思いもよりませんでした。

 

宿が池の鯉のようにカワセミを飼っているはずはありません。ましてや客の前で漁をするように仕込んであるはずもありません。すべては無作為です。でも、私が目撃する位ですから、何度も繰り返された光景なのだと思います。カワセミが客の目の前で漁をするような環境を常に整備しているからこそ、そうなるのでしょう。きっと他にも私たちの眼に触れないところで、膨大な作業が行われているのだと思います。無作為の作為。これ見よがしの言動は避け、見えないところで常に新しい努力を惜しまない。これが500年以上にわたってこの宿を一流成さしめている、伝統と革新の秘密なのかもしれません。

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このページは、ブログ管理者が2017年3月27日 12:21に書いたブログ記事です。

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