ブックレビュー: 2010年6月アーカイブ

人材の複雑方程式(日経プレミアシリーズ)
守島 基博
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「人材の複雑方程式」(守島基博著)は、バブル崩壊後の日本企業の人材マネジメントを、リアリティーをもって分析されている、好著だと思います。

 

日本企業の弱体化→グローバル・スタンダード型人材マネジメントの安易な導入→更なる日本企業の弱体化

 

のサイクルをわかりやすく解説しているとも読めます。たとえば、

 

リーダー育成は、フォロワー育成とあいまって初めて本来の効果を発揮する。

 

選抜教育は私も必要だと思います。だからといって、それ以外の大多数の社員の教育をおろそかにしていいはずがありません。しかし、残念ながら現状はそうはなっていません。階層別研修がそうだとは言い切れませんが、一定年次になったら押しなべて研修機会を提供する姿勢すら、近年薄れているように感じます。内容を吟味した上で、やはりそこへの投資もすべきでしょう。

 

さらに、成果主義導入がその必要性を高めています。

 

敗者にとって、将来は成果をあげられると思うための仕掛け(例えば人材育成)が重要になる。(中略)評価制度の納得性を高めるための膨大な量の研修と、成果主義と連動した人材育成である。

 

成果をあげろと圧力をかけておきながら、そのための支援はほとんどない。成果が上がれば給与を増やすから頑張れ!と言っておきながら、経営陣はたとえ減益であっても報酬は増やしているという現実も、徐々に表に出てきています。

 

突き詰めてしまえば、「信頼」に行き着きます。

 

新しい戦略に移っていくといなど、企業の変革にあたっては、働く人が経営者にどれだけ信頼を置いているか、その結果としてどれだけ我慢する気があるかが、重要な経営資源なのである

 

信頼とは、不確実な状況で行動をとるときの相手の意図に搾取的な要素がないという評価だという。

 

 

長い間日本企業の隠れた経営資産であった、経営陣と社員との間の信頼が揺らいでいるかもしれないこと、これが最も重大な問題と思います。なぜそれが失われつつあるのか、そしてその回復のために何をすべきか、経営陣は徹底的に考えるべきでしょう。ここ数年が勝負だと思います。

高峰秀子の流儀
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小津安二郎監督にとって原節子がなくてはならないように、成瀬巳喜男監督にとって高峰秀子は最高のパートナーでした。原は若くして引退し、鎌倉の自宅に引きこもってしまい、一切外部との関係を遮断しています。高峰は、55歳で引退したあとも、エッセーを書き続けました。でも、やはり映像には現れません。

 

私は成瀬映画ファンで、当然のように女優としての高峰秀子のファンです。しかし、なぜか彼女のエッセーは読んだことがありません。今回、斎藤明美著「高峰秀子の流儀」(新潮社)を読んで、大いに後悔しています。

 

梅原龍三郎に気に入られ、多くの肖像画を残している、往年の大女優のイメージを越えてはいませんでした。(失礼ながら、存命とは思いませんでした)その作品(映画とエッセー)と人柄を、私が尊敬する司馬遼太郎、沢木耕太郎、井上ひさし各氏が絶賛していることを、本書で知りました。

 

驚くべきことに、彼女は学校に一ヶ月強しか通っていないそうです。小学校含めてですよ!字は、絵本などを見ながら独学で修得したのです。4歳で実母が亡くなると、叔母に養女としてもらわれました。その直後に子役デビューです。養母(高峰はデブと呼びました)は、金づるとしての高峰にしか興味がなく、学校に通わせなかったのです。しかし、彼女は養母が死ぬまで養い、世話を続けた。

 

司馬遼太郎が、高峰を称してこう言ったそうです。

 

「いったいどういう教育を受ければ、こんな人間が出来上がるのだろう」

 

教育は学校で受けるものではないのです。先日亡くなった市川昆監督が、終生頭が上がらなかったのが高峰です。市川の撮った東京オリンピックの記録映画が、完成直後政治家やマスコミから批判され、ぼこぼこになっていた市川を、彼女一人が擁護した話は、全くもって痛快。こんな女優、いや人間がいたことが驚きです。(つい先日、日経「私の履歴書」で暴露した有馬稲子とは大違い!!)

 

 

大女優高峰秀子は、86歳でまだ健在です。この伝説のような人と同じ空気を吸っていると思うだけで感謝したくなる、そんな人柄が伝わってくる一冊です。これから、エッセーを読みます!

クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国
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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ ~天正少年使節と世界帝国」をやっと読了しました。本書は、2003年刊行されすぐ購入したのですが、本文526ページの重さのためか、ずっと本棚に置きっぱなしでした。ところが、その間著者の若桑さんは亡くなり、本は文庫化され、妻が先に文庫で読了してしまいました。それで、やっと重いこの本を手に取ったというわけです。

 

読了して思ったこと、もっと早く読めば良かった。イエズス会関係の膨大な資料を丁寧に読み解いて描いた世界は、私のこれまでのなんとなくの疑問に答えてくれるものでした。

 

なぜ、信長は南蛮人を好んだのか。逆になぜ秀吉や家康は彼らを憎んだのか。なぜ光秀は信長を討ったのか。なぜ、わずか数十年で、キリスト教は九州を中心の大名から農民にまで浸透したのか。そして、隠れキリシタンと呼ばれる信者は、なぜ迫害のもとで信仰を捨てなかったのか。なぜ、日本はポルトガルやスペインは、他のアジアの国々に対するように植民地化しなかったのか。なぜ、江戸幕府はオランダだけに出島を与えたのか。などなど。

 

また、桃山時代の少年がローマに行ったということは、歴史で習ったような気がしますが、まるでおとぎ話のようにしか捉えていませんでした。しかし、それは事実であり、グレゴリウス歴で知られる法王グレゴリウス十三世や世界帝国スペインのフィリップ二世にも謁見しているとは!学校でならった日本史と世界史が見事につながった!当時の日本も、世界の変化と無関係ではなかったのです。まるで、現在のように。もし、そのまま日本が世界に開いていたら、鎖国していなかったら、日本や世界はどうなっていただろうと、想像せずにはいられません。

 

著書の若桑さんは、資料を丹念に読み解くうちに、少年使節の4人と友人になったかのようです。それだけ、魂が込められています。歴史を扱いながらも、著者の思いや主観が、溢れる部分があります。その言葉は、強く心に刺さります。

 

イエズス会の偏執的なまでの報告義務と収集癖が、歴史に名を留める有名人(信長、秀吉、高山右近、利休、フィリップ二世・・・)のみならず、無名の人々の言動までも記録しています。それらを丹念に読み解く、まさにミクロの活動が結果としてマクロの姿、つまり16,17世紀における日本と世界の姿を見事に描いているのです。ミクロを突き詰めるとマクロになることが、実感されます。上っ面だけの抽象論や空中戦では、なにも本質には到達できない。これは、塩野七生さん著作にも共通することですが(なぜか二人ともイタリア語が堪能な女性)本書を読んで、あらためて感じました。若桑さんは、刊行4年後の2007年に亡くなってしまいましたが、本書を世に出すことできてきっと本望だったことでしょう。

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