この1ヶ月で読んだ本のうち、「『フクシマ論』 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(関沼博)と「大地の芸術際 ~現代美術がムラを変えた」(北川フラム著)の二冊が、頭の中で共鳴しました。
両著とも副題に「ムラ」がついていることからわかるように、どちらも貧困と過疎、そして高齢化にさらされている地方を題材にしています。「フクシマ論」は福島原発周辺地域がいかに原発を持つようになったかを、詳しく分析した学術論文をもとにしています。
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか
開沼博
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貧しさゆえに原発に依存し、そこから抜け出せなくなった構造が示されます。その時期が高度成長期と重なり、毎日東京から送られてくるTV放送が豊かさを誘い、欲望を掻き立てられたムラの姿、今となっては哀感を持って読まざるをえませんでした。欲望を刺激され、それを満たすには原発しかなかったのです。
そういう人々を、我々はどうして攻められるでしょうか。しかし、代償は高いものとなってしまいました。その責任を負うのは、一義的には東電であり政府なのでしょうが、それらを後押ししていたのは、欲望をベースとした経済・社会づくりに邁進していた、我々すべての日本人なのではないでしょうか。不便を我慢して節電に走るのは、そういう罪悪感が心のどこかにあるからに違いありません。
越後の山村でも、過疎や高齢化の問題は全く同じでした。ただ幸運にも、欲望を満たすための原発などには無縁で、じっくりと衰退を続けてきたのです。そんな山村で、2000年から三年ごとに現代美術の祭典が開催されています。それを主導しているのが北川フラムです。「大地の芸術際 ~現代美術がムラを変えた」では、ディレクターの立場からの経緯や思いが率直に書かれています。
大地の芸術祭
北川 フラム
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私は2006年の第三回と2009年の第四回に訪れました。作品群はもちろんのこと、地域と一体となった取り組みに感激したその裏舞台を少しだけ知ることができました。閉鎖的なムラでなせ、これだけ村民の協力を得られたのか疑問でしたが、その理由もだいたいわかりました。とにかく、話し合うことです。
これには辛抱がいる。同じことを何度も説明しなければならない。明るくなくてはならない、たくさんで行っては駄目で、できる限り一人で矢面に立たねばならない。
ある意味、原発の誘致も似たような活動なのかもしれません。でも、決定的な違いがある。それは、土地や住民に敬意を抱いているかどうかと欲望にもとづいているかどうかの違いだと感じます。
同じような貧しい過疎の地方のムラでありながら、大きな違いとなったふたつのムラ。フクシマは避難対象区域となりいつ戻れるかどうかわからない。一方、越後妻有は、現代美術を媒介にしてムラに誇りと活気が甦りつつある。
両極端のふたつのムラ、時代の大きな変わり目に現れた二つのムラの物語に、これからの日本という大きなムラの未来を考えずにはおられません。