ブックレビュー: 2012年2月アーカイブ

限界集落の真実: 過疎の村は消えるか? (ちくま新書)
山下 祐介
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限界集落は非効率なので、どこか一か所にまとめてコンパクトシティをつくり、そこに移住すれば、医療も公共サービスも徒歩圏内で得られお年寄りも幸福になれる、こんな論調がしばしばみられます。確かに効率化は図れるでしょうが、なんとなく違和感がありました。震災復興でも、同じような視線を感じます。

 

こう語る人々は、東京などの「中心」にいます。中心からは「周辺」が見える。だから、中心が周辺のために「考えてあげる」というスタンスです。そこから出てくる施策は、必ずしも周辺の人々が望むことではありません。

 

例えば昨日の朝日新聞で被災したカキ漁師の畠山重篤さんはこう語っています。

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「これからの家の再建にどこの木を使うべきか。ハウスメーカーは安い外材で建てようとするでしょう。でも河の流域には戦後植えた杉などがたくさん残っているのです。間伐が進めば、森に光が入って養分が蓄えられ、やがてそれが海に流れ込んで海を豊かにする。私たちはしばらく住宅や木材の関連でアルバイトをしながら海が蘇ってくるのを待ち続ける。それが私の復興へのシナリオです」

 

中心は確かに安く家を建てるための情報をたくさん持っているでしょう。でも、周辺が望むのは安く建つ家ではなく、地域の暮らしの復興のはずです。

 

『限界集落の真実』で著者の山下祐介は書いています。

「中心にいる人ほど、周辺が見えない構造があり、全体が見えないまま、思い込みから行う実践が、破滅に導くことがありうると思うからだ。不理解から来る破壊的作用。実際、既にこの二十年ほど、我々はそれをどれだけ日本各地で見たことだろう」

 

「中心の側からは、周辺が見えない。それに対して、周辺は全てを見通している」とも言います。したがって、周辺の側からの主体的な行動が重要になります。

 

しかし、まだまだ「知らしむべからず、寄らしむべし」の姿勢は健在で、知っている中心が知らない周辺に対して与えるという構造が続いています。周辺もそれに慣れてしまい、寄ることかせいぜい陳情という行動しかしてこなかったのかもしれません。中心も周辺も、そのパラダイムから脱却せねばなりません。

 

とはいえ山下によると中心よりも周辺から変わりつつあるそうです。周辺から中心はどのように見えているのか。20年くらい前であれば、憧れの存在でした。中心の情報を求め、中心に似ることを人も街も目指す。現在はどうか?中心が幸福だと考えていることと、周辺が幸福だと考えていることは、ずれてきていないでしょうか。知らないのは中心だけなのかもしれません。

 

先日も、さいたま市のアパートで餓死した親子(と飼い猫)が発見されました。東京での死者の年金不正受給の問題も一昨年話題となりました。限界なのは、周辺ではなく中心ではないのか。

 

先の山下はこうも書いています。

「この限界集落の問題の裏側には大都市コミュニティーの暮らしの問題がある。大都市住民の孤立、無力さ。このことと、限界集落問題は表裏一体のものと理解すべきだ」

 

では、どうすればいいのか。必ずしも解はありませんが、中心が周辺を指導するというパラダイムを変えることがまず一歩だと思います。山下はこう言います。

「中心と周辺とが意図的に結び合わさることで、今までにはない相互作用が始まり、新たなアイデアや実践が生じてくる可能性がある。」

 

このことは企業組織においても同じではないでしょうか。本社が中心で、現場は周辺。中心は周辺が見えないが、周辺は中心を見通している・・・・。周辺が見通しているものを中心が受け止め周辺の実行に支援をする、そんな構造が今求められているのではないでしょうか。

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