ブックレビュー: 2011年4月アーカイブ

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
佐々木 俊尚
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佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」を読みました。時代をシャープに斬って見せてくれる満足感に浸りました。松岡正剛さんは「編集」という言葉を使いますが、佐々木さんは美術の用語からキュレーションという言葉を用いています。編集では活字メディアをイメージしてしまいますが、キュレーションはメディアにとらわれないより広くダイナミックな行為をイメージさせますので、現代にはよりふさわしい言葉だと思います。

 

キュレーターの定義は以下です。

「『作品を選び、それらを何らかの方法で他者に見せる場を生みだす行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手でもある」

 

作家は作品(コンテンツ)を創造しますが、それだけでは受け手(鑑賞者)の内面世界には届きません。受け手(作家が受けて欲しい人でしょうが)の世界感に受容されるようなコンテクストに再構築されて、初めて届く、つまりつながるのです。この再構築を担うのがキュレータであり、再構築されたものが『物語』なのです。

 

作家もキュレータも、独自の視座を提供するということでは同じです。ただ、キュレータのほうが立ち位置が受け手に近いといえそうです。

 

では、視座とは何か。視点とどう違うのか。佐々木さんはこう説明しています。

 

「視座とはどのような位置と方角と価値観によってものごとを見るのかという、そのわくぐみのことです。英語でいえばパースペクティブ。視点がどちらかといえば『ものごとを見る立ち位置』だけを意味しているのに対し、視座は立ち位置だけでなく世界観や価値観など、そこには人間しか持ちえない『人の考え』が含められている」

 

なるほど・・・、視座には独自の『観』が欠かせないということ。ミンツバーグは、戦略には大きくポジショニングの戦略とパースペクティブの戦略があると言っていますが、独自の視座を持つことが戦略だと言えば分りやすい。

 

さて、キュレータのチャレンジは、作家と受け手の境界に位置するということです。作家に対してはその作品/コンテンツを深く理解したうえで、新たな意味合いを紡ぎだし、一方受け手に対しては、受け手が真に望むもの(多くの場合受け手自身もわからない)を定義し、気付かせる。そうして、コンテンツの新たな意味と真に望むものを適切にマッチング、すなわち『つなぐ』 のです。これは非常に困難な創造的な行為です。独自の『観』があって、初めてできることです。

 

コンテンツや情報があふれる時代においては、「コンテンツが王だった時代は終わった。今やキュレーションが王だ」という言葉も、まんざら誇張ではない気がします。

 

考えようによっては、あらゆる業務はキュレータのように境界に位置しています。毎日記者会見をする官房長官も、錯綜する膨大な情報と、国民さらには世界中の人々を適切につなぐ「境界人」(勝手に作った言葉です)だと言えるでしょう。したがって、官房長官の揺るぎない『観』を人々は求めるのです。営業マンもしかりです。

 

そういう意味で、現代は「キュレーションの時代」なのだと思います。境界人としての在り方を、深く考えてみたくなりました。

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