ブックレビュー: 2011年5月アーカイブ

動物の行動を観察して人間についての洞察を得る研究には、京都大学をはじめとして長い歴史があります。しかし、アンドロイドを創ることによって人間を知るというアプローチもあったのです。それをやっているのが、大阪大学の石黒浩教授ともいえます。

 

まだまだ研究途上であり、多くの仮説が生まれてきている段階ですが、それらが面白い。例えば、見かけを自分と全く同じように創ったアンドロイドを前に、人は何を感じるのか。実は人間は自分の姿をそのように立体的に見ることはできません。見ることができるのは鏡を通してだけです。だから、アンドロイドを前にして違和感を持つ。これは自分の声をテープにとって聞くときの違和感と似ています。そう考えると、本当の自分とは?という疑問にぶち当たります。

 

本書にこうあります。

 

全ての自己を持つ生き物は、自分を正確に認識しないままに暮らしているのだ。しかし、この自己を正確に認識しないということが、実は社会的動物においては非常に重要な性質になっているように思う。我々人間は他人を通してしか、本当の自分を知ることができない。ゆえに、社会的である必要がある。人間やそして多くの動物が社会を形成するのは、この自己を正確に認識しようとするがゆえなのかもしれない。

 

自分自身を知りたいがゆえに他者と交わるというアイデアは面白い。コミュニケーションの原点は、他者を知ることではなく自分を知ること。だから他者に自分がどのように写っているのかが気になるのかもしれません。

 

 

それから、技術を駆使して徹底的にアンドロイドの表情の変化を人間に似せることに取組んだ末、ニュートラルな見かけに行き着いた点も興味深い。人間は、相手の顔の物理的な形態を読みとっているというよりも、言葉、匂い、雰囲気などあらゆる周辺情報を入手して、それらを自分の記憶データと照らし合わせて似たものを探すようです。さらに重要なのが、その時の感情です。

 

このような人の様々な想像を反映できるテレノイドのニュートラルな見かけこそがテレノイドのデザインの魅力なのだと思う。あえて似たものを探せば、たとえば、能面が近いかもしれない。

 

これはまさに私が普段感じていることです。能面にしろ文楽の人形にしろ、その時々に信じられないほどの表情を感じ取ります。表情を読み取るのではなく、表情をこちらが創っているのです。想像力のなせる技です。日本の多くの古典芸能は、観客を選びます。想像できない人は、どれだけ観ても楽しめないでしょう。私が3Gを駆使したようなハリウッドの大作映画を楽しめないのは、想像の余地があまりに小さいからなのかもしれません。

 

他にもたくさんの洞察に満ちた本ですが、著者である石黒教授のキャラクターもとても楽しめます。5年前に自分に似せて創ったアンドロイドに比べ太ってしまった自分自身をもとに戻すべく、ダイエットして三か月で10Kg体重を落としたり、オタクな研究者の思考パターンがよくわかります。ちょっと変わっているけれど、こういう人が世の中にないユニークな発見をするのでしょう。そういう意味でも面白い本でした。



どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私
石黒 浩
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知識(Knowledge)、知恵(Wisdom)、知能(Intelligence)これらは似て非なるものですが、なかなかそれらの関係性を整理した書物にあったことはありませんでした。今回、「知性誕生」(ジョン・ダンカン著)を読んで、少しすっきりしました。(タイトルは「知性」ですが「知能」のほうが適切です)

 

「あの人は頭がいい」というときの「頭がいい」に相当するのが知能です。記憶力がいいのでもなく、ずる賢いのでもなく、「知的」に優れていることです。そういう人は問題解決能力が高いといえます。IQで測れそうですが、実は測れないことが本書で示されます。

 

では、どういう人が問題を解決できるのでしょうか?ダンカンはこういいます。

 

行動を能動的に支配する。そして、問題を分解して、注意を必要とする部分に集中し、その部分を実現させることができる

 

問題はいくつかの固まり、すなわちステップに分解しなければ解決できません。その上で、それぞれの固まりに集中して考えるのです。ここまでは知能のはたらきです。

 

それぞれの固まりごとに、多くの解が考えられるでしょう。できるだけ多くの可能性ある解を思いつくことが必要です。そして、その中からもっとも適切な解を選択する。そこで役立つのが「知識」です。

 

知識とは、本質的に世界がどうなっていて、どのように機能しているかを表している。ある行動が構築されるとき、各段階の正しい行動を選択し、組み立てるためにこういった知識が用いられるに違いない。

 

問題解決の秘訣は、適切な知識を見つけること、つまり、問題をまさに適切な副問題に分割し、解決への適切な経路を進むことだ。

 

そして、有用な知識は抽象概念です。抽象概念とは、「多くの個々の事例すべてに当てはまるもの」です。問題解決のある部分でこれを使うのです。

 

問題を解くときに使える知識が増えることは好ましいことです。しかし、単なる事実や情報としての知識では使い物になりません。生きた知識でなければ。それは知能のはたらきの結果であり、「自分自身の思考の産物、つまり自分自身の世界との相互作用の産物」です。そういう構造化された知識を蓄積するには多くの「経験」が必要です。年輪と経験を重ねて蓄積された知識の集積が「知恵」なのです。

 

 

今までもやもやしていたことに、ひとつの観方をもらった快さを感じました。また他にもいろいろと刺さったことがありました。知的刺激とはこういうものなのでしょう。

知性誕生―石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源
ジョン・ダンカン John Duncan 田淵 健太
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日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
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長らく積ん読だった「日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で」(水村美菜苗著)をやっと読みました。評判どおり、今の時代に必要な洞察に満ちた素晴らしい本でした。

 

今の時代は、楽天やファーストリテイリングの英語社内公用語化に代表されるように、「英語ができなければ(まとな)人でなし」と思われる時代です。かつて何度もそれはあったことでしょうが、ネットの普及と経済のグローバル化、そして日本経済の縮小が、今度こそと迫っているようです。

 

言語には三つの意味があると考えます。一つはコミュニケーションツールとしての役割、二つ目は思考ツールとしての役割、そして最後は文化の源としての役割です。

 

塩野七生は、「最近笑えた話」というエッセーの中で先の2社の例をあげ、日本人の思考によるアイデアが消え去る日が来るであろうことを指摘しています。極端な指摘だと思いますが、日本語の思考ツールと文化の源の役割に着目しているのだと思います。

 

水村の本著では、普遍言語としての英語は既に決定的地位を占めており、コミュニケーションツールとしての英語の役割はますます高まるとしています。だからこそ、思考や文化の源としての日本語を守れ!と強調しているのです。

 

そもそも学校の国語では、何を教えているのでしょうか?漢字の習得以外にほとんど記憶にありません。学校で教える国語とは、文字通り「読み書き」ではないでしょうか。それは大人になるために不可欠なことです。では、古文や漢文は?少なくとも私は、国語の授業を受けて、読み書き以外の価値を感じていなかったように思います(先生、すみません)。

 

それは、言語のコミュニケーションツールとしての意味しか見えていなかったからではないでしょうか。水村が指摘しているように、日本語は非常にユニークな言語です。しかも、江戸や明治の先人の苦労のおかげで、高いレベルの思考に適用できるまでに成熟しています。しかも、韓国やベトナムなどが放棄した漢字と、ひらがなやカタカナという独自の文字を使いわけることまでした。(戦後文部省は、漢字を廃止しひらがなやローマ字のみで表記させることを真剣に検討していたそうです!?)

 

水村は、「表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわる」と言い、その例として萩原朔太郎の詩をあげています。

 

ふらんすに行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて

きままなる旅にいでてみん。

 

「ふらんす」を「仏蘭西」と変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよとした頼りなげな詩情が消えてしまい、また「フランス」に変えると当たり前の心情を当たり前に訴えているだけになってしまうと言います。また、もしこの詩を口語体に変えるとJRの広告以下だと断定します。全く賛成です。これほど日本語は豊潤な言葉であり、ここに文化の源の意味が垣間見えてきます。しかしこのままでは、この使い分けの効果の違いを認識できない日本人が、これから増えてくるかもしれないのです。

 

 

私はコミュニケーションツールとしての英語の役割に加え、思考ツールとしての英語(例えば、英語で考えることにより確実に論理性は高まります)も、ことビジネスの世界では必須になりつつあると考えます。一方、グローバル化が進めば進むほど、思考ツールや文化の源としての日本語の重要性が高まってくるでしょう。(塩野はそれを指摘したかったのでしょう)そういう意味で、二重言語者にならなければならないのです。

 

最近の風潮はコミュニケーションツールとしての英語にだけ注目が浴びており、なにか割り切れなさを感じていました。もっと、日本語を大事にすること、それは絶滅危惧種だからではなく競争力の源泉なのだから、と認識したいものです。まずは夏目漱石を読むことからはじめよう。

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