ブックレビュー: 2012年1月アーカイブ

さよなら!僕らのソニー (文春新書)
立石 泰則
4166608320

創造性溢れる企業が、時間の経過と規模拡大に伴ってそれを失い、平凡な企業へとなっていく、これは珍しいことではありません。それでも、それが「ソニー」という、ある時期の日本人にとって象徴的な企業の場合、当然と流してしまう気にはなれません。本書は、そういったソニーに対する愛情溢れる立石氏による、変貌過程のルポと言えます。

 

立石氏より約一まわり年少の私は、彼ほどの思い入れはないとはいえ、それでもやはりかつてソニーは特別な存在でした。なので、少なからず共感しながら一気に読みました。

 

ソニーの変貌は、創業者の存在感が薄れていくという時間の要素、企業規模拡大に伴う管理の必要性の要素、そしてグローバル企業となったが故に起こった要素、の三点にあるのではと本書を読んで感じました。それらは当然、「経営者」を起点にして絡み合っています。

 

以下は、本書の記述を信じたうえでの私の解釈です。

 

創業グループに属する大賀社長は、盛田氏から次の社長は技術畑からと申送りされていました。しかし、本命がスキャンダルで脱落したため、ハー

sony01.jpg

ドとソフトの融合に思い入れの強い出井氏を抜擢します。大賀氏は、盛田氏との約束を破ったことになります。それゆえか、大賀氏は社内基盤の弱い出井氏の後見として影響力を維持しようとつとめますが、やがて院政をよしとしない出井氏は反発し、関係は悪化します。

 

正統性に乏しく社内基盤の弱い出井氏は、グローバル・スタンダード経営という、当時の経営環境や社会の雰囲気から、誰もが反対しづらい旗を立て、過去のしがらみや先輩らからの影響力を排して自らが主導できる経営体制を構築しようとつとめます。それが、CXO体制、執行役員制度、社外取締役制度のような人事&ガバナンス制度、eHQEVA、製造のアウトソースなどの組織&経営管理手法といった、当時先進的だと持ち上げられた多くの経営改革手法です。

 

それまでの社長に比べて正統性の低い出井氏は、短期間で高い業績を上げ、数字で権威を得るより仕方なかった。しかし、思ったような成果は上

yu_sony_01.jpg

げられず、自分が指名した社外取締役からなかばNOを突きつけられるような形で退任した出井氏は、誰も予想しなかった米国人、ストリンガー氏を後任社長に指名します。「エレクトロ二クスのソニー復活」を掲げて新体制を敷くことを決定したにもかかわらず、技術畑どころかソニー製品に関わってこなかった、日本には住まないと明言しているストリンガー氏を、です。出井氏が影響力維持を望んで、院政をひきやすい人を選んだという見方もできます(オリンパスにおける菊川氏とウッドフォード氏との関係が頭をよぎりました)。自らが受けた仕打ちを、今度は自分が後任にする・・・。そして、今度は平井次期社長に・・・。本当にそれが会社にとって正しいことだと考えていたのでしょうか。

 

投資家の影響力が強い上場企業であれば、強い正統性を持たず、かつ戦略を描けない経営者は、すぐに「数字」で結果を示すしか生き残る方法はありません。したがって、どうしても短期志向にならざるをえない。特に、海外市場や海外投資家の影響力の強いグローバル企業ではそうです。そして、それを促す仕組みが、ソニーが先鞭をつけバブル崩壊後に日本企業に浸透した「グローバル・スタンダード経営」なのです。

 

ソニーという戦後の焼け野原から生まれ出た日本企業がグローバル企業になっていくには、避けて通れなかった道なのでしょうか。「グローバル・スタンダード経営」は本当に必要だったのか?仮に必要だったとして、そのための手法は適切だったのか?あるいは適切に運用されていたのか?手法やツールは、使う人の意識や能力によって毒にも薬にもなりえます。今のソニーは果してどうなのでしょうか?

 

アップルが復活したのは、その逆をいったから、すなわち正統性を持つジョブズが復帰し、それまでスカリー以降の経営者が進めてきた「グローバル・スタンダード経営」を強引にぶち壊したから、とも言えるでしょう。かつてジョブズがソニーを尊敬していたことを思えば、皮肉なものです。

 

 

本書で語られるソニーの事例は、ソニーという特別な企業だから、と考えることもできますが、一方で多くの日本企業が参考にすべき点が数多く含まれている気もします。

 

ソニーはこのまま存続を続け、場合によっては再成長するかもしれないが、もはや「僕らの」ソニーは失われてしまったと嘆く著者の愛憎半ばする感情も理解でき、ちょっと複雑な読後感でした。

必ずいつもその著者の書いたものを読みたくなるのは、著者のものの見方や感じ方、距離感の取り方、つまりパースペクティブに共感するからだと思います。常にいつも共感するわけではないのですが、何となく「ツボ」が似通っているという感じ・・・。説明するのは難しいですが、ありますよね。

 

私も何人かいます。意外?なところでは、中野翠。サンデー毎日の連載が毎年単行本になるのですが、毎年それを(なぜか)古本屋で買って読むのが恒例です。そのツボは別途書きたいと思います。

ごきげん タコ手帖
中野 翠
4620320315

 

今日書きたいのは、デザイナーの原研哉です。先日読んだ「日本のデザイン」(岩波新書)にも、多くの共感する見方がありました。厳かに膝を打つ、という感じです。例えば、こんな記述。

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)
原 研哉
4004313333

 

東日本大震災の折、アメリカ合衆国の日本援助活動の名前は「オペレーション・トモダチ」であったが、これは微妙に不気味でもあった。「トモダチ」というワッペンを付けて現れる人々は本当に「ともだと」なのか。大震災の支援は「ともだち」を強要しない国々や組織からの援助も多大であったわけで、そのあたりに実は深い感動もあった。結局、は人も国も「関係性へのデリカシー」が今後は重要になっていくということなのだろう。

(中略)いずれにしても、「オープンネス」と「シェリング」に対する感受性が、今後の社会を住みやすくも住みにくくもするのだろう。

 

私も「トモダチ作戦」(カタカナ表記が一般的だったと思います)には、感謝する気持ちと一方で何となくざらついた感覚のふたつの感情を抱き、それが妙な気持ち悪さになっていたように思います。滝沢直樹の「20世紀少年」に出てくる「ともだち」に、どこかで結びつけていたのかもしれません。

 

原の上記の文章を読んで、その何となくの気持ち悪さの原因がわかりました。「トモダチ」は必ず「非トモダチ」を作り出す。「オープンネス」も「シェアリング」も、それが正しいだけに、オープンでなかったりシェアを拒む人々を抑圧する原因にもなりうるのです。例えばフェースブックは、オープンでシェアを基盤に成り立つコミュニケーション・インフラですが、そこには隠れた裏腹な何かを秘めているようにも漠然とですが感じています。この感覚は非常に個人的なもので、他人にうまく説明できませんでした。原の表現を借りるならば、「関係性へのデリカシー」の問題なのでしょう。

他にも、公平性とか互酬性(私がこれだけやってあげたのだから、あなたもこれだけしてくれなくてはおかしい)も難しい問題を生みだしかねません。

 

原はこうも言います。

 

個々の自由が保証され、誰もが欲しいだけ情報を入手することのできる社会においては、人々は平衡や均衡に対する感度が鋭敏になる。

 

確かにそうですね。自分に不利になっている(と思われる)バランスを均衡させるべく行動することが、資本主義のエネルギー源と言えるでしょう。それは、他者と比べて不利なのかもしれませんし、あるいは昨日の自分よりも不利なのかもしれません。フランスの経済学者(名前忘れましたが)が、「幸福感は、それが増加しているときにのみ感ずる」といったニュアンスのことを書いていました。均衡していたら幸福感を得られないのですから、永遠に幸福にはなれないわけです。情報が増えれば増えるほど、その傾向は強まる。「我、唯、足るを知る」やはり、仏教は真理を語っているのです。

 

 

共感できる書き手がいるということは、自分にとっては財産です。これも「関係性へのデリカシー」のひとつの形なのでしょう。

 

このアーカイブについて

このページには、2012年1月以降に書かれたブログ記事のうちブックレビューカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはブックレビュー: 2011年12月です。

次のアーカイブはブックレビュー: 2012年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1