関係性へのデリカシー

必ずいつもその著者の書いたものを読みたくなるのは、著者のものの見方や感じ方、距離感の取り方、つまりパースペクティブに共感するからだと思います。常にいつも共感するわけではないのですが、何となく「ツボ」が似通っているという感じ・・・。説明するのは難しいですが、ありますよね。

 

私も何人かいます。意外?なところでは、中野翠。サンデー毎日の連載が毎年単行本になるのですが、毎年それを(なぜか)古本屋で買って読むのが恒例です。そのツボは別途書きたいと思います。

ごきげん タコ手帖
中野 翠
4620320315

 

今日書きたいのは、デザイナーの原研哉です。先日読んだ「日本のデザイン」(岩波新書)にも、多くの共感する見方がありました。厳かに膝を打つ、という感じです。例えば、こんな記述。

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)
原 研哉
4004313333

 

東日本大震災の折、アメリカ合衆国の日本援助活動の名前は「オペレーション・トモダチ」であったが、これは微妙に不気味でもあった。「トモダチ」というワッペンを付けて現れる人々は本当に「ともだと」なのか。大震災の支援は「ともだち」を強要しない国々や組織からの援助も多大であったわけで、そのあたりに実は深い感動もあった。結局、は人も国も「関係性へのデリカシー」が今後は重要になっていくということなのだろう。

(中略)いずれにしても、「オープンネス」と「シェリング」に対する感受性が、今後の社会を住みやすくも住みにくくもするのだろう。

 

私も「トモダチ作戦」(カタカナ表記が一般的だったと思います)には、感謝する気持ちと一方で何となくざらついた感覚のふたつの感情を抱き、それが妙な気持ち悪さになっていたように思います。滝沢直樹の「20世紀少年」に出てくる「ともだち」に、どこかで結びつけていたのかもしれません。

 

原の上記の文章を読んで、その何となくの気持ち悪さの原因がわかりました。「トモダチ」は必ず「非トモダチ」を作り出す。「オープンネス」も「シェアリング」も、それが正しいだけに、オープンでなかったりシェアを拒む人々を抑圧する原因にもなりうるのです。例えばフェースブックは、オープンでシェアを基盤に成り立つコミュニケーション・インフラですが、そこには隠れた裏腹な何かを秘めているようにも漠然とですが感じています。この感覚は非常に個人的なもので、他人にうまく説明できませんでした。原の表現を借りるならば、「関係性へのデリカシー」の問題なのでしょう。

他にも、公平性とか互酬性(私がこれだけやってあげたのだから、あなたもこれだけしてくれなくてはおかしい)も難しい問題を生みだしかねません。

 

原はこうも言います。

 

個々の自由が保証され、誰もが欲しいだけ情報を入手することのできる社会においては、人々は平衡や均衡に対する感度が鋭敏になる。

 

確かにそうですね。自分に不利になっている(と思われる)バランスを均衡させるべく行動することが、資本主義のエネルギー源と言えるでしょう。それは、他者と比べて不利なのかもしれませんし、あるいは昨日の自分よりも不利なのかもしれません。フランスの経済学者(名前忘れましたが)が、「幸福感は、それが増加しているときにのみ感ずる」といったニュアンスのことを書いていました。均衡していたら幸福感を得られないのですから、永遠に幸福にはなれないわけです。情報が増えれば増えるほど、その傾向は強まる。「我、唯、足るを知る」やはり、仏教は真理を語っているのです。

 

 

共感できる書き手がいるということは、自分にとっては財産です。これも「関係性へのデリカシー」のひとつの形なのでしょう。

 

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このページは、福澤が2012年1月23日 12:41に書いたブログ記事です。

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