経営: 2009年12月アーカイブ

CLOChief learning officer)という言葉も、とんと最近聞かなくなりました。試しにグーグルでCLOを検索してみたところ、トップ10になんと一件しか、この意味でのCLOはあがってきません。ローン担保証券(CLO)のほうが多く表示されます。ここまで認知されていないとは思いませんでした。

 

その理由は、人事部門と人材開発部門の関係が、日本とアメリカでは大きく異なることにありそうです。

 

多くの米企業では、いわゆる人事部門は、雇用関連の規制の遵守、社員に対する公正な待遇とその一貫性維持を目的に、人事制度策定、給与計算や福利厚生、従業員の個人記録の管理などのいわゆるアドミ業務を担う。一方ラインは、部門ミッションを達成するために採用、育成、評価、昇進などの実務を担う。つまり、企業業績に直接関連する部分は、ラインに権限があるのです。

 

アメリカでは一早く、経営環境の不確実性増大とナレッジワーカーの急増という状況で、社員や組織の能力が競争力の源泉になることが明確になってきました。そこで、経営戦略と直結した、最重要資源たる社員の能力開発や管理が経営テーマになってきたのです。だから、ラインに任せていた人材開発機能を、CLOのもとに束ねトップに直結させたのでしょう。これが本来のCLOです。

 

日本企業は、それとは大きく状況が異なります。日本企業の特徴は、相対的に人事部の権限が強いことです。人事部は、アドミ業務だけでなく採用や配置・異動、昇進昇格などのツールを使って、全社的観点から最重要資源であるヒトを動かし、企業全体の成果向上に貢献してきたのです。ただし、育成や能力開発に関しては、職能資格制度を補完する階層別研修や管理職研修を主管するにとどめ、あとはOJTと称してラインに任せていました。米企業がCLOに期待する役割の多くは、人事部が担ってきたといえるでしょう。

 

したがって、日本企業の間では、「いまさらCLOといわれても、そんなの必要?」という認識なのでしょう。数年前、お決まりの舶来志向の下で一時話題になりましたが、そこまでです。

 

しかし、ラーニング支援機能は、日本企業では不足したままです。環境変化は日本企業にも訪れているにも関わらず、CLOのもっとも重要な機能である戦略的人材開発機能が、貧弱なのです。それは、大きな人事部門における一担当としての教育・研修セクションが、引き続きそのまま温存されているからなのでしょう。しかしながら、環境変化に敏感な日本企業のトップは、CLOとは言いませんが、人材開発部門の強化には大きな関心があります。ここに、トップと人材開発現場の間の大きな溝が見られます

 

CLOという言葉に惑わされず、企業生き残りのために何が必要なのかを、徹底的に検討すれば自ずと答は見えてくることでしょう。

つい最近、ある友人がアメリカでIBMのマーケティング部門トップとお話しする機会があったそうです。そのトップは、広報出身者でした。一般的には、広告・宣伝や営業で実績を上げた方が、トップになることが多いのですが、あえて広報出身。友人がそのことを尋ねると、そこにIBMの経営スタンスが表れているとのことだったそうです。

 

従来は、製品やサービスの機能やブランドイメージを顧客に伝え購入する気にさせる、その仕掛けを考えるのがマーケティングだったはずです。

 

ところが、現在ではIBMという企業そのものを顧客や社会へ伝えることが、最大のマーケティングだと考えているようです。

 

製品・サービスもブランドも企業活動の結果にしか過ぎません。結果は、調べれば誰でもわかります。大事なのは、結果を生みだす原因のほうなのです。どんなに美しい製品を販売していても、それを生みだす企業がBlackだとしたら、いずれその製品の化けの皮が剥がれるといことを、一般消費者が気づいてしまっているのでしょう。

 

つまり、顧客にとっては、「何を売っているの?」よりも「あなたは何者なんですか?」の方が、大切な問いとなっているというわけです。

 

これは、化粧で飾れず、素顔で勝負しなければならないということです。素顔を美しく保ち、かつ素顔をできるだけたくさん見てもらう活動がマーケティングだと解釈できます。

 

販促ツールの一つとして、地球環境保護活動を訴えるような活動ではだめです。エコという化粧に過ぎないことは、簡単に情報収集できる現代においては、すぐにばれます。逆効果でしょう。

 

 

企業そのもの、ひいては社員ひとりひとりが顧客にさらされているということなのです。企業が社会的存在であるのであれば、それも自然なことに思えます。社会にとって好ましい経営思想や哲学を持つ企業が生き残っていくという、適切な淘汰が始まりつつあるのかもしれません。

有名な中古車市場の例です。販売会社は、売り物の中古車の性能や履歴を把握していますが、買い手は情報を持っていません。すると、買い手はどんなポンコツを掴まされるか分かったものではないので、出来るだけ安く買おうとします。

 

販売会社が、これは高品質なんだといくら説明しても、疑いははれません。その結果、低品質の中古車のものに収れんしていってしまいます。そうなると、高品質の中古車は、市場に出回りにくくなり、結局市場は破たんします。これが、情報の非対称性の問題です。

 

もし、ほとんどの販売会社と買い手が長期的取引で成果をあげているのであれば、大きな問題にはなりません。しかし、市場が急成長しているような時期であれば、hit & awayの悪徳販売会社も生き残るチャンスがあるわけです。

 

 

その対策には、シグナリングとスクリーニングがあります。研修講師と研修を実施する企業の関係で考えてみましょう。

 

    シグナリング(情報優位者による)

講師はもちろん自分の実力を把握しています。一方、初めて依頼することを検討する企業は、講師の実力の情報を持っていません。優秀な講師は、ポンコツ中古車と一緒ではないとの情報を提示しなければなりません。本来、そのような場合に有効なのは、資格制度です。大学教員も、研修講師も、日本では資格制度はありません。多くの他の業界では、業界団体や一部の目端の効く人が認定制度を自主的に制定し、運営しています。が、その信憑性は、?のものも多いようです。

 

そこで、reputation(名声/評判)を頼ることになります。過去の顧客リストや、著作物などを提示します。かつては、著作を持つことはそれなりの名声になったようですが、現在では、出版社によってはお金次第です。なので、講師が良いシグナルを発するのは決して容易ではありません。結局、講師の属する研修ベンダーのreputationに依存することも多いようです。

 

そこには、モラルハザードが生まれる余地があります。つまり、講師にとって、研修ベンダーのreputationがあるのだから、それほど一所懸命に準備しなくてもなんとかなるとの甘えが発生する可能性です。それを防ぐには、研修ベンダーの厳しいチェックとフィードバックが欠かせません。ただ、それには多大な手間と評価者の高い能力が必要で、非常にコストがかかります。(受講者アンケートは、一側面しか評価されません)なかなか、難しい問題です。

 

●スクリーニング(情報劣位者による)

企業側は、面談や講師にデモを実施してもらってテストすることができます。あるいは、研修の目的やゴールイメージ、受講者の特性などの詳細情報を提示し、それに対してどのようなアプローチを講師が取ろうとするかを提案させることができます。提案内容をみれば、その講師がどの程度のレベルなのか、またどの程度コミットしてくれそうか、などの情報を入手することができるでしょう。つまり、情報開示させる機会を用意するわけです。

一見、良さそうな解決策ですが、これも容易ではありません。企業側が、まず適切な情報(企画内容等)を講師に提示できるか、また講師の提案やデモを正しく評価できるか。もしそれらができなければ、「優秀な講師」はその提案やデモという手間をかけようと思わなくなってしまう可能性もあります。つまり、評価する側の能力が問われるわけです。

 

 

このように、情報の非対称性は、なかなか手ごわい問題です。でも、そこのソリューションを見つけ出していかなければ、市場はいびつになり、いつまでたってもあやしい業界と見なさ続けることになるでしょう。

日経朝刊の「やさしい経済学―日本の『長い近代化』と市場経済」(by東京大学中林真幸准教授)が面白いです。

 

明治・大正期に日本の輸出を支えた製糸業は、女工哀史で有名ですが、実は現在の経営に通じる多くの革新がなされていました。そこに、今の経営問題へのヒントもたくさんありそうです。

  富岡製紙工場.jpg 

昨日の稿によると、糸の品質を向上させ、輸出競争力を高めるために、全量検査を取り入れました。それはすなわち、女工の能力を計測することにつながります。生産性を上げるために、徹底した成果主義が採用されました。生産性が高いものは、男性監督官よりはるかに高い賃金が支払われました。それが全体的な品質と生産性の向上につながり、全体の賃金水準も向上したのです。

 

ここでの示唆は、成果主義を採用するには、成果測定に費やすコストと人件費総額の増加を前提にしなければならないということです。バブル崩壊以降に広まった日本企業の成果主義とは、成果測定をあいまいにし、また総額人件費の増加は覚悟していなかったでしょう。逆に総額を抑えるための成果主義と判断されても仕方のない運用だったと思います。その揺り戻しが、現在来ているのです。形だけ真似ても魂が入っていない典型と言えるでしょう。

 

今日の稿には、当時家事という個別スキルしか持てなかった女性が、上記のような成果主義の職場を獲得することにより、「亭主持ちの窮屈」を「忍ぶ」よりも、「自働自営」の「気楽」を選ぶようになったとあります(「信濃毎日新聞」1893826日号より)。100年以上も前の記事です!!

 

また、女性をサラリーマンと読むこともできそうです。これまで終身雇用先企業における個別スキルのみを磨いてきた社員が、市場で評価される普遍スキルの獲得を目指し、労働市場へ参入する。これは、歴史的な流れの一部なのでしょう。ただ、女性の「婚活ブーム」は、その流れに逆行しているように思えますが・・・。

 

日本の企業や社会の特殊性を必要以上に言い訳にする論調がありますが、歴史を紐解いてみると、必ずしもそうではないと発見することがあります。特殊なのではなく、それを隠れ蓑にして、徹底した合理的経営がなされてこなかったのかもしれません。短期的には不合理に見えても、長期的には合理性に適うことはたくさんあります。時間軸を考慮した上での合理性の追求が、今あらためて求められているのだと思います。

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