経営: 2011年5月アーカイブ

 

今回の震災で、これまでなかなか見えてこなかった現実が、突然見えてくることがいくつかあります。そのうちのひとつは日本の東北や北関東に位置する部品メーカーの重要性です。そこでの操業停止が、日本どころか世界中の生産をストップさせているものもあります。その代表はマイコンのルネサス・エレクトロニクスでしょう。

 

5/4の日経朝刊で、「欠かせぬルネサス、なぜ赤字 『下請け』体質、利幅薄く」という興味深い記事がありました。操業停止で大変な影響を及ぼすほど競争力の高い製品を作っているにもかかわらず、なぜ赤字続きなのか。インテルとどこが違うのか。それは、下請けに甘んじていて技術面・事業面でリーダーシップは発揮できないからと指摘しています。つまり、仕様や価格などは販売先である製造メーカー(自動車会社など)が決定するので、どんなに他社が製造できない部品であっても十分な利益を出せない構造なのです。必ずしも販売先と資本関係などなく、系列でもないルネサスですらこうなのです。よく下請けへの対応は、生かさず殺さずといいますが、まさに未だにそのようです。

 

かつて部品製造まで垂直統合する米自動車会社に対して、部品の大部分は系列の部品メーカーから調達する日本の自動車会社は、その柔軟性により優位に立っているとの議論がありました。日本では擬似家族を形成し、家長たる自動車会社が何があっても下請けを守る、その代わり中小部品メーカーは言うことを聞く、というシステムです。日本の文化に合った優れた仕組みだと思いますが、「公平性」の線引きは非常に難しい。一歩間違えると、搾取の構造です。

 

今回のルネサスのような状況を知ってしまうと、やはりフェアな取引になっていないのではと感じてしまいます。もちろん部品メーカーの側にも責任はあるでしょう。製品に関するリーダーシップを取れないのは事実ですから。(自発性を伸ばさないように、うまく下請けを管理しているともいえます)

 

 

この記事の二日前の日経夕刊「人間発見」岡野工業代表社員の岡野氏の言葉が印象的です。ちょっと長いですが引用します。

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職人の代表のように言われることもあるが、職人は腕さえよければ良いというものではない。(中略)おやじもそうだったが、典型的な職人はあまり人付き合いをしないで、腕を磨くことに生きがいを感じている人が多い。でも仕事というものは、人と人のつながりでできるもの。すごい技術を持っていても、相手が「この人と仲間になりたい。一緒に仕事をしたい」と思ってくれるようでないと、仕事はなかなかできません。

 

町工場が生き延びていくには、人が持たないような優れた技術を持つことはもちろんです。加えて斬新な発想や人の心をつかむ力、自分たちのものづくりをアピールしていく力も必要なのです。俺は「世渡り力」といっているが、(中略)世渡り上手の人間には多くの人が寄ってきて、情報も集まるものです。

 

 

日本には優れたものづくり企業がたくさんあります。しかし、多くは(ルネサスも)古い職人の集まりのような会社かもしれません。岡野氏がいうような新しい職人、世渡り上手な職人の集合体である企業が、これから求められていくように思います。日本も、そういった自律した数多くのものづくり企業をベースにした産業社会に切り替わっていくのではないでしょうか。

 

震災がその転換のきっかけになるような気がします。さらに岡野氏の言葉を続けます。

 

 

世間で注目された製品をつくっても、会社を大きくする考えはありませんでした。会社を大きくすれば、投資額が増えるし、苦労も増えるからです。

 

俺は同じものをつくり続けたくないし、いつももっとすごいものをと思っている。だから、先端的な製品を作っても、その多くは量産化のめどがつけば、機械ごと他社に売り渡すことにしている。そして、得た資金を次の開発につぎこむ。うちで手掛けるのは、特殊な技術が必要で付加価値の高いものだけと決めているのです。

 

 

下請けに甘んじるのは、規模が得やすいからということが一番ではないでしょうか。それと安定。規模を追求することで失うことが必ずあります。戦後からこれまでの日本経済は、規模追求を暗黙の前提としてきました。そのパラダイムも大きく変わるはずです。

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