一昨日、「形」から入るのはいいとして、その後でどうするのか、ということを書きました。そのことを、少し角度をかけて、さらに考えてみました。
和魂洋才という言葉があります。それは、明治時代に、進んだ西洋の技術を取り入れるものの、日本人の精神は失わないという決意の言葉だったと解釈しています。この考え方が、現在の日本の底流にあると思います。
例えば、社外取締役制度。バブル崩壊後、雪崩を打ったように日本企業は採用しました。この制度の精神は、株主からすれば、社長の「部下」である内部取締役だけでは、経営のチェックが機能しない。利害関係のない社外の有能な人材が取締役となり、経営を「取り締る」べきである、ということでしょう。その精神は、理にかなっています。
この制度を「形」として採用した日本企業は、果たしてこの精神も採用したのでしょうか。その後の状況を見る限り、そうでもなさそうです。うがった見方かもしれませんが、
―外部の人間に、うちの会社のことがわかるはずはない
―社外取締役の得意分野に関しては、ご意見を拝聴するが、それ以外は聞き流そう
―株主重視の開かれた企業であると、アピールするために社外取締役制度を活用しよう
という論理が罷り通っている気がしてなりません。
つまり、「形」だけ取り入れ、「精神」は取り入れていない、まさに和魂洋才ではないでしょうか。数年前にはやった買防止策も同様です。
今、日本企業に必要なのは和魂洋才ではなく、「和才洋魂」だと思います。グローバル競争に対応するためには、そのエッセンスを取り入れることを避けことはできない。ただ、日本企業組織に導入するに際しては、日本的な適用方法を工夫すべきです。そのまま取り入れてもだめだし、もちろん形だけ取り入れてもだめです。グローバルな精神を日本組織に適合するように解釈し、形を整える、そんな努力をもっとすべきだと思います。
(その具体策を提案するのが、経営学者なのだと思うのですが、残念ながら洋魂洋才が多いように感じてしまいます。)
コメントする