ブログ管理者: 2016年7月アーカイブ

多分、日本企業で働くホワイトカラーで最も多くいる職種は営業職でしょう。どれだけIT化が進んでもそれは変わらないと思います。企業対企業の取引では、長期的関係性が重視されます。頻繁に取引先を変えていては、取引コストが膨大になるからです。また、長期的取引によって、双方が相手を効果的に活用する方法を学習します。もちろん、馴れ合いや緊張感の欠如はダメですが、それがなければ長期的取引は合理的です。

 

それだからこそ、新規開拓の難易度は高い。よく米国企業はものさえよければどんな新参者とも取引してくれて素晴らしいとの話をききますが、それはすぐ切られる可能性も高いことの反面です。入るのは難しいが、入ってしまえばそれなりに快適というのは、入学や就職と同じかもしれません。

 

さて、ある大手BtoB企業が、取引のまだない大手優良企業を落とすべく、営業部長がじきじきに担当し攻略することを計画しました。これまで何度も担当者が営業をかけても落とせないターゲット企業。この計画の成否にこの会社の成長がかかっています。

 

その企業から、営業部長(13人います)に対してプレゼンテーション力強化の一日研修の相談がありました。先方の期待は、まず4人の部長を対象に作成したターゲット企業向け営業提案書の出来栄えをチェックし、実際にプレゼンさせて改善点をフィードバックしてほしいというものでした。

 

一般的なプレゼン力強化研修の場合、資料作成及び口頭でのプレゼンテーションにおける表現力/説得力を高めることが主な目的だと思います。こういったことを得意とする講師はたくさんいます。しかし、今回の対象は営業部長、しかも実際に攻略する相手先も決まっており、研修終了後すぐに提案訪問することになっている。つまり、すぐに成果が出ることすなわち取引を獲得することが求められているのです。これは研修というよりは営業支援でしょう。

 

そう考えたため、当初期待された研修内容より、さらに一歩踏み込んだ対応が必要だと判断しました。つまり、研修のゴールはターゲット企業からの受注獲得、そのためには、そもそも提案内容(コンテンツ)が適切でなければなりません。コンテンツのブラッシュアップと、誰にどういう立ち位置で提案するのかといったコンテクストの設定、その上で文書と口頭での表現力、そういった総合的なアドバイスとトレーニングをしなければならない。それを担当する講師は、一般的なプレゼン研修のプロではないでしょう。その業界の知識を持ち、提案営業を数多く経験し実績を出してきた、さらには受講者とインタラクションを適切に持って、気づきを促すことができる高いファシリテーションスキルも必要です。幸い、その条件に合う方に依頼することができました。

 

ただ、先方の窓口の方は、我々が考えているほど大げさなものを当初期待していたようではなさそうです。そこで、本質的な期待に応えるにはこのアプローチしかないことを講師とともに説明し、ご理解をいただきました。

 

次の問題は、研修に一日しか取れないため、提案内容(コンテンツ)のブラッシュアップにどうやって関わるかです。事前にコンテンツの精度をある程度高めて提案書を作成し、研修に来てもらう必要があります。我々が出来るのは、コンテンツを適切に考え抜いていただくための問いを投げかけ、その回答を用意してもらうことだけでした。そして、以下を事前課題として研修の4日前までに提出することを求めました。

 

1.      対象顧客に対する取引拡大戦略の確認

(1)既に作成済の資料の提出

(2)競合他社分析

A.直近3年間の自社及び競合他社の取扱実績(売上)比較を表にまとめる。

B.競合他社(上位企業もしくは当社がシェアトップの場合は第2位企業の強みと弱みは何か?

(3)対象顧客に対する取引をより一層拡大するために、現在の営業活動で足りないものは何か?

(4)上記(3)を克服するためには何が必要か?

(5)対象顧客が抱える課題とそこから抽出されるニーズは何か?

(6)上記(5)で抽出されたニーズに当社・当営業部・支店はどのように応えることができるか?

(7)対象顧客に対す取引拡大に向けた営業目標を設定したうえで、上記(1)~(6)を踏まえて、目標を達成するための営業戦略を端的にまとめる。

 

2.提案資料の原案作成(フォーマット自由)

上記1を踏まえて、対象顧客に対する具体的な提案(プレゼンテーション)資料を作成する。


集まった4人分の資料は、完成度はあまり高くはありません(個人差は大きいものの)が、概して真面目に取り組んでいることがうかがわれるものでした。講師は、それらを念入りに読込むと同時に、各ターゲット企業の分析も行いました。提案内容に関するある程度の仮説を作っておくのです。また、提出資料は、他の受講者とも共有しておいてもらいました。

 

そして研修当日。まずは、4人が順番に、ターゲット顧客に関する分析(5分)と提案概要(8分)を発表します。ここは模擬プレゼンではなく、考えていることを発表するスタンスです。発表したコンテンツに関して、講師や他の受講者はコメント、質問、アドバイスをギフトとして与えます。聞いていた受講者も、営業経験豊富な方々ですから、的を射たアドバスが多数なされました。共通の課題を抱える受講者は、一緒になって知恵を出そうと必死にメモを取る姿が印象的でした。

 

それらが終わったところで、講師から提案書作成のポイントがいくつか提示されました。講師は事前に集まった提案書をみているので、彼らにアドバイスすべき内容は整理されていました。このレベルの受講者に、教科書通りの提案書作成ノウハウを提示してもあまり意味はありません。

 

ランチの後で、午前中に得た多くのアドバスを反映させるべく各自で提案書の修正作業に入ります。それにかけたのは約2時間。4人は代わる代わるに講師に個別の質問を投げかけ、講師は一緒に考えていきます。講師は正解を持っているはずはなく、あくまで受講者が自ら判断するプロセスをサポートする役割です。受講者も講師とやり取りする中で、自ら納得していくようでした。

 

そして、最後に各15分の模擬プレゼンを実施します。(ここから管掌する取締役が出席されました。)プレゼンする受講者と講師は約2mの間隔を空けて、相対で座ります。講師は提案を受けるターゲット企業の特定の方を演じます。(相手先企業の誰に提案するかは、固有名詞で決まっています。)両者の横に立てられたスクリーンに提案書を投影し、模擬プレゼン開始。照明を落とすかどうか、立って話すかどうかなども、すべてプレゼン者に任せました。途中で顧客役の講師が質問します。

 

こうして、模擬プレゼンが終了すると、講師は他の受講者に感想を求めます。午前中と比べてどうだったか?どうすれば、もっと説得力を高められるか?もし自分が顧客だったら、どういう印象を持つか?など。活発に発言がなされました。講師からのフィードバックを行い、最後に取締役にコメントをいただく。これを4人繰り返しました。


私も、後ろでオブザーブされた方々も、思った以上に最初の提案書から改善されたという印象を持ちました。講師の事前の準備と作り込みに基づく的を射た指摘やアドバイス、そして受講者同士の積極的な相互アドバイスが、提案書作成とプレゼンを成功させようという強烈な場の「空気」を生み出していったようです。たった一日で、ここまでレベルアップしたことには、私自身驚きました。

 

研修終了後の受講者と企画側や事務局、そして講師の達成感、自己効力感に満ち溢れた顔を見るのが、私にとって最大の報酬かもしれません。

 

キェシロフスキは、私が最も好きな映画監督の一人です。彼は、残念ながら20年前(1996年)、54歳の若さで亡くなりました。最晩年の199394年にかけて監督し、絶賛されたのがトリコロール三部作。まさに頂点に向けて加速した時期に、突然の心臓発作で亡くなったのです。その時の衝撃は今でも鮮明に思い出せます。私が、「すごい監督を発見した!」と喜んだ矢先だったので。

 

今、渋谷ル・シネマで没後20年特別上映「キェシロフスキのまなざし」が開催中です。初めて彼の作品を観たのもここでした。早速、三部作の第一作「トリコロール/青の愛」を観てきました。この作品は、ジュリエット・ビノシュ演ずるジュリーの夫と娘が交通事故で亡くなるところから始まります。大けがをしたものの、一人生き残ったジュリーの再生の物語です。再生、すなわち精神的束縛からの自由。ちなみに、シリーズの他の二作品は、それぞれ、白=平等、赤=博愛を表現しています。

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亡くなった夫は著名な作曲家で、EU統合式典のための交響曲(Song for the Unification of Europe)を作曲している途上での死でした。その曲がストーリーの中でも、また映画音楽として、もとても重要な位置を占めています。(今、サントラを聞きながら書いています)

 

EUが正式に発効したのが1993年、まさに本作が公開された年です。その後、拡大を続けたEUが、今年初めて離脱国を出すのですから、運命的とも言えそうです。監督が生まれたポーランドがEUに加盟するのは2004年。多くの侵略された歴史を持つポーランド出身であるキェシロフスキ監督にとって、EUは特別のものだったのではないでしょうか。

 

さて、EU統合交響曲の中の合唱で、愛の尊さが何度も歌われます。EU統合は、損得に基づくものではなく、戦争を二度と起こさないよう「愛」を基本価値とした統合だったのだと思います。しかし、残念ながら先の英国の国民投票では、離脱派も残留派も、目先の損得の議論に終始していたように思います。本来、EU統合の理念は、損得ではなくもっと高尚な理想(それを愛といってもいい)に基づいていたはずなのですが。この作品を観なおして、1993年には共有されていた、損得ではない理想主義の存在を思い起こしました。

 

また今回、23年前に初めて観たときとは違った、多くの発見がありました。再生に向かうジュリーの細やかな心の動きです。細かいエピソードが重ねられ、少しずつ自由を獲得していくプロセスが、納得感をもって伝わってきたのです。(喧嘩からの逃亡者、フルート吹き、娼婦退去の署名拒絶、子供を産んだ鼠、ベッドマットレス、老人ホームの母、ヌード劇場での出来事、夫の恋人の妊娠、そして青いプールでの水泳など)以前は、それらの意味合いにはほとんど意識が向かなかったと思います。しかし、今回それらに込めた監督の意味合いが理解できたように思えました。(23年前は、それを言語化はできなかったものの、直観では理解していたのかもしれません。)そして、最後にジュリーは夫の残した作品を自らの手で書上げる。その一点に集中していくように、物語は気品と緊張感を持って進んでいくのです。

 

ラストシーンは、合唱の音楽をバックに、様々な登場人物が走馬灯の絵のように映し出されていきます。それは、神の視点であるかのようでした。人間は、どんなに苦難に陥っても再生しまた生き続けるのだと、その繰り返し見続けてきた神の視点、それでこの映画は終わります。

 

騙されることの責任

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2週間前の英国EU離脱決定は、様々な波紋を呼んでいます。中でも、勝ったはずの離脱派リーダーの表舞台からの離脱、そして彼らの公約撤回に伴う離脱派市民からの「騙された!」との怒りの声。民主主義のお手本であるはずの英国が、どうなっちゃったの?


 しかし、腐っても英国。やっぱり、違います。イラク戦争独立調査委員会(通称チルコット委員会)が昨日発表した最終報告書。長期機密扱いの慣例も破って公開された資料も含まれています。また分量にして、ハリーポッターシリーズ全7冊の2.4倍。2009年から7年かけて調査したもので、その内容は詳細を究め、独立の名に恥じず、中立の立場で当時の首相をはじめとした政府を批判しています。これぞ民主主義の基本。政府に対し、主権者への責任を果たさせるために必要不可欠な検証作業が、公正に実行されたのです。ちなみに、英国同様アメリカに追随した日本は、外務省によって4ページの報告書が作成されたそう。

 チルコット委員会.jpg

こういった検証作業は、日本では馴染まないのでしょうか?ちょっと前に大騒ぎした舛添問題。知事を辞職したら、金銭問題追求の話は消えてしまった。小泉氏もとっくに退任しているので、イラク戦争参加責任検証の声は上がらない。

 

検証作業とは、間違いを繰り返さないためにするのであって、「首をとる」ためにするのではありません。今回の英国チルコット委員会がまさにそうです。しかし、日本では首をとるのが目的で、首がなくなったら検証の必要性はなくなってしまうようです。こういう日本人の特性をよく理解する他国の人々は、「日本は大丈夫か?」と不安を抱えるのではないでしょうか。

 

先の大戦では、日本人のほとんどが軍部などに騙されたと戦後感じたことでしょう。騙された人々には責任はないのでしょうか?

 

昨日、太田啓子弁護士から以下の文章を教わりました。書いたのは映画監督伊丹万作氏(伊丹十三の父)です。長いですが引用します。

 

「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 

「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 

「私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。


 「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」

 

だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 

「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

「「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 

(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月:「戦争責任者の問題」より)

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