ブログ管理者: 2016年6月アーカイブ

分断の時代

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24日のイギリス国民投票でのEU離脱決定は、予想外の結果でした。あの実利的なイギリス人が、経済合理性に抗って精神的、感情的理由から独立を決めたのですから。二年前のスコットランド独立の国民投票も、最終的には英国に残る経済的メリットが、「独立」という精神的、感情的メリットに打ち勝ったのですから、尚更驚きです。

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スコットランドや北アイルランドでは、残留派が大勢でした。イングランドでは、ロンドンのみが残留を支持、他の地域は分離派の勝利。また、若年層ほど、高学歴ほど残留を支持しています。地域においても世代においても、驚くほど分断が進んでいるのです。

 

他のEU諸国でも、分離派が力を増しているようです。総選挙中のスペイン、オランダ、フランス、そしてドイツにまでその力は広がっています。アメリカのトランプ現象も同様です。

 

自国第一主義という面で、日本も似たようなことが起きていると思います。アベノミクスとは近隣窮乏策ともいえます。国債の実質的日銀引き受けという劇薬を使ってまで輸出企業支援のため円安に誘導しました。さらに年金資金を株式投資にまでまわし、株価を引き上げてきました。非常にざっくりいうと、他国と未来の日本国民からの富の収奪です。

 

しかし、これらはグローバリズムの必然的な結果だと言えそうです。資金と人と企業が自由に国境を超えるのがグローバリズム。世界規模で、儲かるところに資源は集中する。当然、儲からないとこにはまわらず、ますます貧しくなっていく。貧富の差の拡大は必然。それを、「同じ国民なんだから助け合おう」として妨げてきたのが「国民国家」だったわけです。EUは、国民国家を超えた疑似国家です。

 

今、起きているのは、世界中で国民国家としての統合力が低下していること。「分配」による統合が難しくなると何で補うか、そう「ナショナリズム」による統合です。「国家」による分配機能低下によって貧しくなった人々が、「国家」を絶対視していくこの矛盾。

 

ナショナリズムによる、国家間の分断が始まっています。日本でも、ヘイトスピーチや嫌中、嫌韓言論がその典型でしょう。さらに、世代による分断、そして貧富の格差による分断も同時進行しています。それが、今回のイギリス国民投票でも明らかになりました。さらには宗教による分断もあります。こういった複数の分断が絡み合っているのが、現在の世界なのです。

 

思想の観点では、世界は統合の時代と分断の時代が交互に現れると解釈されるそうです。ナポレオン戦争後にウィーン会議が開催され、19世紀初めヨーロッパは統合の時代となります。しかし、19世紀末には民族主義、帝国主義のもと国民国家による国家紛争、つまり分断の時代に突入し、やがて血みどろの第一次世界大戦となります。終戦後、再び統合を標ぼうし国際連盟設立。しかし、世界恐慌に端を発したナショナリズムの高まりから、第二次世界大戦へ。暗く重い、分断の時代。1945年、日本の降伏により終結。国際連合を設立し、再び統合の時代へ。1990年にはソ連崩壊によって東西分断もなくなり、やがてドイツ統一。1993年、総仕上げとしてのEU統合により、統合の思想は今後もずっと広く世界中に広まっていくだろうと、多くの人は思ったことでしょう。

 

統合の力が強くなればなるほど、分断のエネルギーが溜まっていくのかもしれません。過去の歴史を振り返れば、戦争→統合→分断→戦争→統合、この繰り返しなのです。なんと人類は進歩しないものなんでしょうか。

 

残念ながら、今の時代の空気は分断とその結果としての自陣営の利益追求です。その自陣営も、さらに細かく分解していく。EUから分離するイギリスからスコットランドが分離していくように。西洋がその精神の基盤としてきた理性主義は、もはやその力を持たないのか。本当は、こんな時代だからこそ、日本が世界に対して東洋の中庸の思想を広め、この分断の時代に終止符を打たせるべきなのでしょうが、残念ながら似非西洋化してしまった日本には、その力は望むべくもありません。

言葉の力

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昨日までの土日は、参議院選挙公示前最後の週末であったためか、いろんな所で選挙演説が行われていました。たまたま、土曜には新宿駅前で、日曜には吉祥寺駅前でそれに出くわしました。新宿は野党側、日曜は与党自民党でした。

 

野党側といっても政党主催ではなく、SEALDsなどの市民団体主催で、野党四党からの国会議員や文化人を招いたものでした。多くの方の街宣車上からのスピーチがあったのですが、政治家のスピーチが最も下手で心に響きません。ある女性議員は、原稿の棒読み。風で原稿が吹き飛ばされたらどうするのだろうと心配になったほど。

 

それに対して、Sealdsメンバーなど若い市民は、自分の言葉を一人称で熱く語り、聴衆も明らかに引き込まれていました。政治家の多くは、「我々は・・・・、正に・・・・、・・・・・しようじゃありませんか!」と、紋きり型です。やはり、人の心を動かすのは、スピーチ技術ではなく、どれだけ本気で自分自身の言葉で語れるかです。沖縄の女性のスピーチが代読されました。読んだのは、司会をしていた大学生の女子でしたが、強く心に刺さるものがありました。生声でなくても、本気の言葉は伝わるものなんです。結局「心」なんですね。途中でラップ音楽タイムのような時間もあって、結構楽しめました。

 

一方の日曜の自民党による選挙演説は、首相を筆頭に「有名人」が演説するので前日の新宿より、はるかに大勢の聴衆が集まっていました。しかし、土曜以上に政治家による紋きり型演説のオンパレード。しかも、登壇者も自民党のヒエラルキーにそった方々が順番にいろいろ出てくるので、正直退屈。「皆さん!・・・・じゃないですか?そうでしょう!!」といったパターンの連続で疲れます。どうして、こうも政治家の演説は、上っ面でしゃべっているのが見え見えなのでしょうか?心がこもっていないので、共感しようがない。

 

二日間を通して、政治家は全員「我々は、・・・」と一人称複数形で語るのに対して、市民は「私は、・・」と一人称単数計で語るのが特徴的でした。国民の代表たる代議士なので、「私」ではなく「(皆さんの想いも含めた)我々」というのでしょうが、それが白々しいのです。こちら側としては、「勝手にあなたの一人称に私も含めないでよ」と、突っ込みもいれたくなります。「私」を持つと政治家になれないのかもしれません。

 

話は変わりますが、エドワード・スノーデンを覚えていますか?2013年頃、アメリカ政府機関によるプライバシー侵害を告発した、元CIA職員です。彼に関する映画を先日観ました。昨年、アカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞した「シチズンフォー」です。

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独占インタビューを公表したガーディアン紙記者とスノーデンが初めて会った時からの様子を、カメラが撮り続けています。スノーデンの暴露について、日本ではあまり多くは報道されなかったと思いますが、初めてその実相が理解できました。

 

彼は命を賭けて、市民の立場からアメリカ政府の間違いを正そうとしたのです。売名でも何でもなく、正義感からです。だから、彼の言葉は淡々としていますが、ものすごく説得力があります。記者も天下の大スクープを取りたい気持ちはやまやまですが、それ以上にスノーデンの命や意思を最大限尊重する姿が印象的でした。これぞプロの仕事。

 

あらゆる事態を予測した上で暴露したスノーデンですが、やはり家族の身に触手が伸びると、混乱した姿を見せます。しかし、正義感によって意思を貫く。彼は、決して自己犠牲ではないと語ります。このまま何もしないで隠し続ける自分が許せない。だから、自分のために公表するのだと。

 

私の中で、政治家の演説とスノーデンの言葉がシンクロしてしまいました。正反対に。しかし若い市民の言葉には、スノーデンと共通する個人としての決意のようなものも垣間見えました。自分のために自分自身の言葉で語る「個人」、それが社会をいい方向に動かす原動力なのでしょう。

 

 

ところで、映画の中で、「プライバシーが守られなければ、自由もない」という言葉が紹介されます。考えてみれば、今の生活から自由を取り上げるのはどんどん容易になっているのですね。怖い話です。

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