経営: 2012年4月アーカイブ

世界全体における日本市場のGNPシェアは約8%だそうです。バブルの頃は15%くらいあったので、約半分に影響力が低下したことになります。15%もあれば、日本市場だけでも十分な規模ですので、海外市場はプラスαの存在だと考えても無理なかったかもしれませんが、それが8%にまで低下し、今後急速に高齢化が進み消費能力も激減することが明らかになれば、そうはいっておられません。

 

一方、海外企業から見れば日本市場の魅力が低下するわけですから、撤退する企業は増えるのも当然です。近年起きていることは、日本がその他多くの国の一つになっていくプロセスにいるがゆえに起きていることと言えるでしょう。

 

小国が一定の豊かさを維持するには、海外市場に出て行かなければなりませんそのために海外市場に不可欠な言語も習得しなければなりませんし、相手国の事情を斟酌して対応することも必要です。ようは、自分のやり方を他国で押し通すことはできないわけです。(アメリカですら、そうなりつつあります)

 

そんな中、どうやって日本人、日本企業としての独自性を出していくべきなのか、十分検討することが必要です。最悪なのは「バナナ」でしょう。皮をむけば白い、というやつです。そんなバナナを食べたがる人は世界中探しいてもいないでしょう。

 

 

今月の日経「私の履歴書」は演出家に蜷川幸雄氏です。彼はヨーロッパでも高く評価されていますが、この連載を読んでその理由がなんとなくわかってきました。

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50歳で売れない俳優に足を洗い演出一本にしたものの、評価はさんたんたるもの。そんな時、東映の中根公夫プロデューサーが、「海外で評価を確かめませんか」と声をかけたそうです。中根氏はフランスで演劇を学んだ経験があり、蜷川らの舞台は欧米のレベルに負けないと力説。そして、「王女メディア」を引っ提げてヨーロッパを周り、そこから成功が始まります。蜷川氏はこう書いています。

 

西洋の演劇を日本人の記憶と結んで上演する。父や母のような普通の日本人がみてもわかる舞台を生み出したいという思いが、外国の民衆に届いたのだ。

歌舞伎や能といった古典芸能をヨーロッパにもっていたのではなく、ヨーロッパの古典演劇をもっていって大喝采を浴びるということはすごいことです。さらに、海外の観客に迎合したのではなく、普通の日本人を想定した演出、つまり日本人の根底に流れている血や風土、記憶に根ざしたものを提示し、その普遍性を観客の魂に響かせたのです。

 

一方、英国で現地の俳優を演出する際には、徹底的に彼らに合わせた。

 

英国の俳優は論理的に説明しないと、納得して動いてくれない。若い頃青俳で倉橋健さんに仕込まれた戯曲分析の訓練が役に立った。(中略)例えば、「ハムレット」でフォーティンブラスの軍が近づいて去っていく場面。音楽を高めると「ニナガワ、軍隊は戻ってきたのか」と問われる。そこで劇的効果の意味を丁寧に説明する。(中略)全員が「ニナガワ、ニナガワ」と質問を浴びせてくる。ポスター一枚稽古場にはるのも討議だ。

 

自らの内にある普遍的な部分は妥協せず守り通す、それと同時に手段にあたる部分については、郷に入れば郷に従えで相手に徹底的に合わせる。もちろん合わせられるだけの力量を蜷川は持っていたから可能だったのですが。

 

これが世界で通用するための、一つの型なのかもしれません。日本企業が世界で生き残っていくための、ヒントがある気がします。

日本最強の電機メーカー、パナソニック、ソニー、シャープの3社が仲良く大きな赤字を計上し社長交代に追い込まれたことは、時代の転機を象徴しているように思えてなりません。垂直統合モデルが効かなくなったとか、組織が硬直化して意思決定が遅れたとか、いろいろ言う人は多いのですが、どうもそういう問題ではないような気がします。

 

上記3社に限りませんが、「改革」を進めてきた結果一次的には利益を生んだものの、それも長くは続かず、赤字に戻ってしまうというパターンが多いようです。それはなぜなんでしょうか?

 

「改革」の名のもとに行われてきたことの多くは、アメリカ型の経営への転換と言ってもいいでしょう。これは企業レベルの施策だけでなく、政府の法規制による誘導も含めてです。そういった「改革」が本当に日本企業を強くするものだったのか。

 

例えば、取締役改革。ソニーに代表されるように、社外取締役を大幅に増やすことで、経営者の暴走を抑えようとしました。オリンパスしかり。しかし、結果は、取締役会で社長を抑え込めるだけの内部情報を持つ役員がいなくなってしまい、社外取締役が社長の暴走を助長することになってしまったとは考えられないでしょうか。(それでも政治家の中には、単純に社外取締役を義務化しようとの主張もあるようで驚きます)

 

こうした動きは、外に模範を示してくれる先生がいるはずだ、との暗黙の信念があるからに違いありません。古くは中国(隋、唐、明、清など)、明治維新後はヨーロッパ、戦後はアメリカが模範でしょう。

 

日本人の特性として、先生あるいは権力者(正しい判断を下すはずの人)を探り当てて、その先生との親密度で優劣を決めるというところがあります。「アメリカでは現在、XXXという経営手法がブームになっているらしい。それを我社がいち早く導入し、業界における経営改革の先陣を切るのだ」といったことを尊ぶ風潮がありはしないでしょうか。

 

もちろん、その手法が当該日本企業にとって適切なものであれば結構なことですが、多くの場合そうではないことが多いようです。適切な例ではないかもしれませんが、1970年代初めに建設された福島第一原発のマークⅠと呼ばれる格納容器は、GE社が米東海岸に設置するために設計したもので、そもそも地震が起こることを想定していなかったそうです。それを無邪気に導入した東京電力と、無邪気にアメリカでブームの経営手法を導入している日本企業とあまり差はありません。(その点98年に格付け会社から終身雇用を続けるのなら社債格付けを落とすと迫られても、堂々と反論したトヨタは立派でした)

 

古来日本が外国から新しい概念などを輸入したときは、無条件に導入するのではなく、必ず日本の文化や風土に合うように変形させてきました。仏教でも寺院建築でも、似て非なるものに修正しています。また、律令制は輸入したものの科挙制は受け入れないというように、選択的導入を図っています。そういった知恵が、あまり働かなくなっているように見えるのはなぜなのでしょう。

 

ひとつには、経営者の責任があります。東京理科大の伊丹教授が『よき経営者の姿』という本で、長年の観察から経営者が劣化しつつある状況を分析しています。

よき経営者の姿よき経営者の姿
伊丹 敬之

by G-Tools

 

 

「改革」の名のもとに、角を矯めて牛を殺すようなことが行われていないでしょうか。そうしないためには、自社(及び従業員)の体質や文化、思考パターンを認識しておく必要があります。日本人が、どれだけ沢山のコーラを飲んでビーフを食べてロックを聴いてもアメリカ人にはなれません。勘違いしてはいけません。「変える」ことが目的ではなく、「組織を強くして業績を上げる」ことが目的です。

 

そのために、変えるべきことと守るべきことを峻別する知性、そして変えるべきことをどのようにどうやって変えるかの深い思考が求められています。その思考のベースには、「日本人が主体の日本の会社」だという前提をはずすことはできないでしょう。だからこそ、我々は「日本人」についてもっと理解を深める必要があると思います。

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