学問としての教育学の対象は、子供であることがふつうです。でも、教育は子供にだけ必要ではなく、我々大人にも必要です。
それに対応するもののひとつが、「企業内教育」でした。そのベースには、「社員は子供と同じように、職務に必須の知識やスキルを修得しなければならない。だから、教育する。ただ、子供と違って素直じゃないから、少し工夫が必要。」という考えがあったように思えます。特定の会社という環境に属す大人を教育するということです。
学問の世界では、大人の教育を重視してこなかったため、企業内教育の理論化は、それほどなされなかったというのが実態でしょう。もちろん、労働者の生産性向上の方法論は、研究され進化を続けました。
その後、企業内では、他者が意図を持って教える「教育」では、足りなくなってきました。「教える」とは、教えるべき正解があって、それを提供することを意味します。ところが、だんだん教えるべき正解がわからなくなりました。過去の知識や経験が活きなくなったのです。
簡単に言えば「教える」ではなく、「学び」をいかに促すかに、焦点が移っていたわけです。そこでは、教えることをベースにした教育論では、なかなか役立ちません。
教育と学びは、ひとつのものを表裏から見た関係ともいえます。でも、基本的には、主体が教育者(教師)で、客体が学び手(社員)。これからは、学び手を主体とすべきです。そして、学び手とその支援者の関係をどう築くかに知恵を使います。
つまり、企業組織内に「学び」の仕掛けを組み込み、社員が自律的に学ぶことを支援することが必要なのです。
「教える」パラダイムで、教える人の技術を高めることを目的にした「教育学」から、「学び」のパラダイムで、学びを必要とする人が、自律的に学ぶ技術を高めることを目的にした「学び学?」(いかに学ぶか)とそれを組織内にシステムとして組み込む技術(これは多分にビジネスの世界でのエンジニアリングに近い)を併せ持った「ラーニング・エンジニアリング」(勝手にそう呼んでいます)が今必要なのだと思います。そのような理論化もまだまだ途上でしょう。
教育のパラダイムを脱した新しいパラダイムを、企業の人材開発部門と「学び」の専門家が一体となって構築する時がきているのではないでしょうか。
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