先週金曜から昨日までの三日間、以前も書いた 「越後妻有トリエンナーレ2009 大地の芸術祭」に行ってきました。
多くの作品に刺激を受けましたが、作品とは別にも様々なことを考えさせられました。その一つが「コミュニティーの核としての学校」についてです。
約20年前になりますが、北欧のフィヨルドを船でゆっくり数日かけてめぐったことがあります。急峻な傾斜地が、フィヨルドに落ち込むほんのわずかなスペースに、集落が点在していました。へばりつくように建ついくつかの建物の中には、かならず小さな教会があります。それが集落の中では最も立派な建物であり、小さな集落の核であることは、船から見てもわかりました。人々の教会に対する親愛と尊敬の念が感じられました。
日本の山村では明治以降、それが学校でした。(江戸時代まではお寺だったのでしょう)美術作品を巡り、越後妻有の山村に入り込むと、それが良くわかります。
村の住民は、何代にもわたって、その学校の卒業生ばかりです。学校の建物自体が、人々の記憶集積なのです。
しかし、近年子供の数が減り、次々と廃校になっています。それにとどめを刺したのが平成の市町村大合併です。今回も、いくつもの廃校を利用したアート作品を観ましたが、2,3年前まで使用されていた小学校がいくつかありました。まだ、生きている感じがするほどですが、合併を機に中心地にある大きめの学校に統合したのでしょう。
確かに、その方が効率的です。しかし、廃校となった村からは、人々の記憶が剥ぎ取られてしまったかのような印象を受けました。
フィヨルドの村々で、人口が減ったからと言って教会を壊し、町の大きな教会に統合することをするでしょうか。コミュニティーには、記憶集積としての核が絶対に必要です。
こういう社会に風穴を開けるべく、コミュニティーの核であった学校の建物を活用し、アートの力で新たな核として蘇生させるプロジェクトが、大地の芸術祭のもとでいくつも立ち上がってきているのです。
学校を自分たちの記憶の集積として愛着を持ち続ける住民と、彼らと協力して学校建物を生き返らせようとするアーティストの、一見すると不似合いですが、実は強力なコラボレーションの一端を垣間見ることができました。
成長が止まった日本の方向性を暗示するような、素敵な場面に遭遇することができた三日間でした。是非、実際に現地に足を運び、体感することをお勧めします。
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