イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワード氏が書き残している、以下の言葉が好きです。
「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は、説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は、心に火を点ける。」
教育の目的とは何でしょうか?決して、知識を付与することではありません。知識付与は、目的を達成するために必要な要素のひとつにしかすぎません。
教育の目的とは、生徒(社員)に、自分自身が持っている才能に気付かせ、それを追求する方向に仕向けることではないでしょうか。「好きなことを追求することが、才能を伸ばすことになるのだから、それをもっと突き詰めていいんだよ」と後押しすることが、火を点けることにもなるのだと思います。
旧来、学校教育にしろ、社員教育にしろ、社会や会社が要求する一定水準の能力を付与することが教育でした。しかし、今や、汎用的な一定水準の能力の重要性が、相対的に低くなってきています。社会や組織の成り立ち自体が変わってきているからです。「ゆとり教育」は、そのための方策だったのかもしれません。
そういう社会となると、難しいのは「火を点ける」やり方です。火が点く理由は、人それぞれで違います。Aというやり方で火がつく子供もいれば、それでは決して点かない子供もいるはずです。それを見極めて、それぞれの方法でアプローチできるのが、優れた教師なのでしょう。ロビン・ウィリアムス主演の「Dead poets society」は、そんなことを実感させる映画です。
感情を持つ人間の「心」に作用させることが、そんなに易しいはずもありません。特に企業組織の場合は、短期の業績目標の達成という制約のもとで、中長期的にヒトを育てていかねばならないので、なおさらです。
解はありませんが、相手を理解し、そう相手を理解する自分自身を知ることから、火の点け方が見えてくるような気がします。
そして、その前提は、他者は自分とは必ずしも同じでないメカニズムで思考・行動しているのであり、そういう多様な人々がいることが社会や組織を強くしているのだとの信念を持つことではないでしょうか。
ところで、「火を点ける」というとき思い出すのは、(そのまんまですが)薪ストーブで火をおこす作業です。何度やっても苦労します。でも、やっているうちに、これって人間の集団作用と同じだなと感じることがあります。冬になったら、書いてみようと思います。
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