麻生総理は昨日、与党内の総選挙時期をできるだけ先延ばししたい勢力と折り合いをつけて、総選挙を8/20に実施することを決定した、と新聞にあります。
ここでの「折り合いをつける」の意味は、妥協するというほどの意味でしょう。
私は、近頃「折り合い」をつけるという言葉が気になっていましたので、その記事を読んだ瞬間、そんな使い方はよしてほしいと思ったのです。
大切な人を亡くしたとき、あるいは大切な何かを失くしたとき、人は茫然とし混乱し、平衡を保てなくなります。二度と太陽は登らないと思うかもしれません。
ましてや、自分をそんな状況に追い込んだ者が存在する場合、その「犯人」を憎まざるをえません。しかし、憎悪の先にあるものは憎悪でしかなく、平安ではありません。それが頭ではわかっていても、そうしてしまう。
そういった状況で、その犯人を「許す」ことは、簡単なことではありません。でも、許すことは、相手のためでなく、自分のためです。実は、なんとか許したいのです。
責める対象、言いかえれば許す対象がいる場合は、まだいいかもしれません。それがない場合の悲しみや落胆は、どう整理すればいいのか。でも、人間は強い。なんとかします。
このような自己の内面のはたらきが、「折り合いをつける」ということではないでしょうか。決して、「諦め」とは違います。より前向きで成熟した心の働きだと思います。
時間はそれに大きな役割を果たすことは間違いありませんが、それだけではありません。
以前、何かの本で読んだことがあります。
ある若者が問います。「大人になるってどういうことだろう?」
大人が答えます。「大人になるってことは、いろいろなことに折り合いをつけられるようになることだ」
大人になることは、簡単ではありません。
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