「わからない」ことにくらいつくこと

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10月から上智大学のコミュニティ・カレッジで、哲学の講座に参加しています。毎週火曜の1830くらいから2015くらいまで、全11回のシリーズ。「本気で考える哲学 -西田幾多郎とカントを正面から読む」というタイトルですが、主に西田の「善の研究」を読み込むのが目的です。

 

残すところあと3回まで来ましたが、とにかく難解で未だに歯が立ちません。毎回先生(上智大学哲学科大橋教授)に一つでも質問することを自分に課しているのですが、昨夜は質問できませんでした。毎回、教室から駅に向かう道すがら、情けなさいっぱいで、何のために通っているのだろうと落ち込みます。この齢になって、なかなか味わえない感情です。

 

企業研修に際しては、「すっきりして帰るのはいい研修とはいえない。もやもやしながら帰り、その後の業務の中でももやもやについて考え続けることで力がつく」ということをよく申し上げるのですが、自分がその立場になるとつらい。しかも、仕事には直接的には無関係のもやもやです。

 

最初の頃先生が、難しい本を読むときのヒントを教えてくださいました。

 

  最初はゆっくり丁寧に →わからなくてもスキップせず、とにかく読む

  間取り、検分、分析、評価(自分は最後) →不動産購入の例えです

  何でないのか、反対を考える →何であるかの理解より、何でないかの理解の方が容易なので、そこから攻める

  具体は抽象へ、抽象は具体へ

  例は例でしかない →例は惑わせることもあるので注意、慣れればスキップ

 

これは大変参考になりました。応用も効きます。でも、やはり「善の研究」は難解で、よくわからない・・・・。

 

では、なぜこんなつらい目にあいながら、この講座を取ったのか。ひとつは、西田哲学に対する興味です。自然科学分野ならいざ知らず、社会科学の分野では世界に通用する日本人学者はほとんどいません。そんな中、西田は唯一世界に通用する哲学者といえるでしょう。日本人が世界に通用するには、当たり前ですが日本人ならでは発想が欠かせません。それがなかなかできないのです。現代でもそうですね。

 

非常におおざっぱに言えば、西田は西洋哲学と仏教(特に禅)を融合させたところにユニークさがあります。ビジネスにおいても、アメリカを中心としたグローバリズムの限界が見えてきた現在、東洋的、日本的なもの(思想、文化、ものの観方、関係性・・・)をそれに融合させることで、ブレイクスルーがあるのではと、直観している私は、その先駆である西田に学びたいと思ったのです。

 

もうひとつの理由は、先に少し書きましたが、「わからないこと」にくらいつくことへの執着です。能を習っているのも同じ理由かもしれません。「できないこと」にくらいつく。能では考えることを嫌います。考えないで、とにかく先生に身体的にくらいつくことが大切です。その結果、出来なかったことがだんだんとできるようになっていく(まだできませんが)。

 

西田哲学は、「考え抜く」ことで、「わからないこと」にくらいつく。身体と脳という全く異なるところを主に使うわけですが、わからないことにくらいつくという面では共通です。もしかしたら、それでバランスを取っているのかもしれません。(取れている実感はあまりありませんが・・)

 

とにかくあと三回、1/19の最終回までくらいついていきたいと思います。終わってみて、何か少しでも発見があれば嬉しいのですが。

善の研究 (1979年) (岩波文庫)
西田 幾多郎
B000J8DVIQ

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このページは、ブログ管理者が2015年12月 9日 11:38に書いたブログ記事です。

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