山陰地方の人口五万人ほどの毛利家の城下町萩市。この町は空襲にあうこともなく、今も江戸時代の町並みがそのまま残っている。一楽二萩三唐津と言われる萩焼の古里でもある。萩焼は江戸初期、毛利家お抱えの坂家と三輪家によって発展してきた。
Mさんは、萩市で最も古い陶器のお店の四代目だ。五代前までは、輪島漆器の小売店だった。昭和初期まで、漆器の需要は旺盛でM店は多いに栄えた。初代が萩焼を扱い始めたのは偶然だった。江戸時代、萩焼は大名家とそれに準ずる名家が茶道で使うための道具であり、庶民には無縁の存在だった。
ところが、明治維新により高価な萩焼の購入者は激減、陶芸の家は食いつなぐため、抹茶茶椀以外の日常雑器も作り、自ら販路を開拓せねばならなくなったのである。そして、M店に萩焼を扱ってもらうべく売り込みに行く。初代は、庶民が買いやすい器を中心に、店の端に少し置くことにした。それが当たった。庶民は、お金持ちしか持てなかった萩焼を自分も持てるということを喜び、数年後には漆器の売上を上回るまでになった。
そして、二代目は漆器の扱いをやめ、萩焼専門の問屋に業態転換をした。そこから今のM店が始まる。安い陶器を大量に仕入れ、料理や旅館、百貨店などに安く大量に卸す。少しずつ日本も豊かになり、庶民の家でも、冠婚葬祭には大量の陶器を購入するようになっていった。
当初は付き合いあった萩焼の有名な作家の商品も、高価なため店の方針に合わず、徐々に取引はなくなっていった。困っていた時、初代に助けてもらったと感謝していた陶芸家も、M店の冷たい扱いに落胆し、自ら都市の百貨店などに売り込む道を歩むことになった。その中の何人かは、高いステータスを獲得し成功をおさめた。
一方のM店は、安く大量に販売する路線で規模拡大することに注力し、三代目の時代、バブル期にピークを迎え、一時は20人近い店員を雇うまでになる。しかし、バブル崩壊とともに、急激に売上は減少。そんな頃、四代目は大学を卒業し、深く考えることもなく、家業のM店に入った。
景気は悪くなる一方だったが、三代目は商売のやり方を変えない。若き四代目は疑問を持ちながらも、父親に従うしかなかった。Mさんは、自分なりに商売を梃入れしようと、いろいろなアイデアを父親にぶつけてみたものの、一切聞く耳を持ってはくれなかった。「俺が死んだら好きにやってもいいが、それまで俺のやり方でやる」と。
Mさんはやる気を失い、外回りに行くと言っては、喫茶店で時間を潰す日々が続く。
そんなあるとき、Mさんはいつもの喫茶店で、不思議な老人と言葉をかわすようになる。その老人はMさんが老舗陶器問屋の四代目だと知ると、陶器について専門的な話しをしてくるにようになった。老人は驚くほど知識が豊富だった。一方、家の商売に全く興味のないMさんはほとんどまともに相手ができず、さすがに恥ずかしい思いをした。
ある日、老人はMさんを誘った。「自分が焼物について教えてやろう。毎日私の家に来なさい。」どうせ暇なのだからと、それから毎日、車で一時間ほどの老人の家に通った。Mさんは骨董商だった。萩市は戦災にも合わなかった城下町、町中にはまだ古いいいものが眠っていた。老人は、毎日萩に軽トラックで通い、骨董品を買い集めていたのだ。
後で知ったことだが、Mさんが老舗の倅と知り、M家の倉に掘り出し物が眠っていると当たりをつけ、Mさんに接近してきたのだ。以前、三代目に倉を見せて欲しいと頼んだことがあったが、にべなく断られたそうだ。世間知らずのMさんなら手玉に取れると思ったに違いない。
Mさんは毎日老人の家にある倉庫に通い、片付けを手伝った。毎日お茶を出してくれるものの、特に何かの教えてくれるわけでもない。次第に飽きてきたMさんは、老人に早く焼物について教えてほしいと頼んだところ、「毎日教えているではないか。学んでいないのはお前自身だ。」と言われてしまう。毎日違った古い茶碗でお茶を出してくれていたが、その茶碗はどれも一級品、それに毎日触らせているのに、何もわかっていなかったのだ。Mさんは情けなくなる。さらに老人は言った。「いい茶碗かどうかもわからないのは、身銭を切っていないからだ。これから、自分でいいと思った茶碗を買ってこい。俺が判断してやる。」
三十代初めだったにも関わらず、500万円くらいの貯金があったMさんは、貯金を崩して茶碗を買いまくった。しかし、ことごとく老人は首を横に振るのだった。
10年以上Mさんは、M店での下働きを終えた後、老人の家に通い続けていたが、父親は好い顔はしなかった。自分の言うことは全然聞かないのに、訳の分からない老人を師匠とし、従順にいうことを聞いている、そんな息子が許せなかったのだろう。
とうとうMさんの貯金は底をつきかけた。そんな時老人はヒントをMさんに与えた。「お前は茶碗を買って儲けようとか人から誉められたいとか思っているだろう。欲で買う奴には、いいものを見極めることはできない。純粋な目でみるんだ。」
その言葉にはMさんは気づいた。確かに自分は欲の目でみていた。真っ裸で、真っ白な目でお茶碗に対峙してみようと。
そんな時、気になるお茶碗を見つけた。とにかくそのお茶碗が気になって仕方なくなったのだ。でも、お金が足りない。頭を下げて、父親と祖母から15万円を借り、最後の貯金と合わせて購入した。これが最後の買い物と覚悟した。
先生(その頃Mさんは老人をそう呼んでいた)に恐る恐るその茶碗を見せた。反応はこれまでと同じだった。落胆したMさんは、やる気を失い先生のところに通うこともできなくなった。
数ヶ月ぶらぶらしていたところ、不意に先生から電話が入った。「あの茶碗はもう売ったか。もし売れないのなら、可哀想だからお前が買った値段で俺が買ってやろうか。」
それを聞いたMさんは勝った!と心の中で叫んだ。十数年の先生との付き合いから、先生は自分が欲しいと思ってもすぐにはそう売り手には言わず、しばらくしてから助けてやろうかと持ちかけるというやり方で、いいものを手に入れていることを知っていたからだ。やはり、自分が最後に買ったお茶碗は先生の目にも叶う名品だったのだ。もちろん先生には売らなかった。
それからMさんは自分の目を信じられるようになった。開眼したのだ。その後Mさんは先生とともに、「最後の茶碗」の作者は誰なのかの調査を始めた。それは、「最後の茶碗」が他のどんな萩焼とも違う唯一無二の萩焼茶碗だったからだ。この調査は、Mさんのライフワークになっていく。
(続く)
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