失敗からの学び(二度目の仕舞から)

普段、失敗経験を振り返り、そこから学ぶことが大切だと発言しているのですが、自分のこととなるとなかなか、うまく実行できません。今日は、一昨日の自分自身の失敗について振返ってみたいと思います。

 

一昨日、私が仕舞と謡を習っている観世九皇会の素人弟子の発表会が、京都の観世会館でありました。京都ですから、関西在住のお弟子さんが対象ですが、東京からも多数参加しました。私は昨秋、ホームの矢来能楽堂での発表会で初めて仕舞の舞台に立ちましたが、思うようにできず、なるべく早く次の舞台に立って、悔しさを晴らしたいとの思いがありました。そこで、今回京都の会に参加したわけです。(発表会後の宴会が楽しみだったこともありますが・・)

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昨秋の初仕舞の出番直前、自分ではそれほど緊張しているとは思っていなかったのですが、そうではありませんでした。切り戸口裏ですぐ前の順番の方が終わるのを待っているとき、ふと最初の詞章を思い浮かべようとしたら、なんと出てこなくなってしまったのです。

 

簡単に段取りを説明すると、私の演目は「紅葉狩」だったのですが、演者(私)が舞台に出て、地謡の前に座り構えたのち、「されば仏の戒めを」と一節謡います。そして、後を受け地謡が謡い始めたところで私が立ち上がり舞を始めます。だから、この一節を私が謡えなければ始められません。その最初のたかだか一節が、頭の中から消えてしまったのです。一瞬焦った私は、周りを見回しました。たまたま、そこを内弟子の河合さん(女性です)が通りかかったので、急いで教えてもらったのです。幸いそれですぐ舞台に上がることができ、難を逃れましたが、自分にそんなことが起きるとは思いもしなかったため、動揺が残っていたのでしょう。普段の稽古で一度も間違えたことがないところで、間違えてしまったのです。ものすごく悔しかったです。緊張している自覚があまりないのに、実は緊張しており、簡単なところで失敗してしまったのですから。

 

さて、そして二回目の仕舞の舞台。今回は「班女 クセ」で舞台に立ちました。私が謡うところは、最初と中間の二か所あるのですが、絶対忘れないように周到に準備しました。同じミスは犯したくないですから。切り戸口裏で出番を待つ間も、何度も口の中で繰り返していました。そのためか、今回の方が緊張していないように感じ、「今回はうまくいくかも」と少し安心していたのかもしれません。

 

そして、いよいよ出番。切り戸口の開閉は、最初に仕舞を習った中所先生でした。先生に促され舞台に出ました。普段稽古している矢来能楽堂では、最初に座る位置の床板が、長年の使用のため擦れて色が変わっており、それが目印になっています。しかし、ここではそんな目印はありません。4人並んだ地謡の、中間の位置を目指して片膝をつきました。そして、「さるにても我がつまの」と大きく謡いました。あとは、地謡に合わせて体を動かせばいいのです。

 

何度も稽古しているので、型を忘れる不安はあまり感じていませんでした。演技を進めるうちに、ふと客席が気になりました。京都の友人が応援に来てくださっていたので、なんとなくどこにいるのかと探してしまったようです。すると、脇正面に若い金髪の欧米系の女性が目に入り、また正面席にはアフリカ系の若い男性の姿も目に入りました。さすが京都、こんな素人の会に外国人も見に来るのだなと、何となく頭をよぎったようです。後でわかったのですが、京都観世会館はの客席はすり鉢状になっており、とても見やすい傾斜です。ということは、舞台上からもお客さんの顔がよく見えるのです。

 

でも、これらは全て邪念です。地謡の声に集中しなければなりません。それぞれの詞章と仕舞の動きは対応しています。私は今回、詞章をすべて暗記して臨みました。謡と仕舞の動きがずれないようにするためです。しかし、観客席に意識が少しいっていた中間部あたりで、私の動きと謡が少しずれていることに気づき、一瞬「まずい修正しなければ」と思ったのです。稽古の時もその程度のずれは時々起ることで、それほど大きなミスではない。十分修正できる程度のずれです。でも、それに気づいた瞬間、頭が真っ白になったのです。真っ白というのは適切かどうか、一瞬時間が止まった、あるいは記憶が飛んだ気分です。

 

ふと我に返ると、謡はそのまま謡われているのに、仕舞と詞章の対応が分からなくなっていました。道に迷った感じ。その間私の動きは止まっていたでしょう。思いっきりまずい事態です。その直後、「秋風怨みあり・・」という謡が耳に入り、位置が分かりました。そして、その部分の型にすぐ移ったのです。とにかく元の道には戻れましたが、動揺は隠せません。その後、なんとか仕舞を最後までやり通せましたが、頭の中で様々な感情が渦まいていました。

 

これが、私の二度目の失敗談です。頭が真っ白になった時間は、多分4,5秒だと思います。素人が観れば、そういうものだと思いミスに気付かないかもしれません。そのくらいの間なのです。でも、私の中では数分も経過したように感じました。なんで、こんなことが起きてしまったのか。今回も、稽古の時にそんな失敗をしたことがないところです。引っ掛かりやすいところではありますが、その分注意していたので、忘れたことは一度もありません。しかし、今回はその注意が他のこと(観客席やずれの自覚など)に気を取られたため欠落し、さらにそこに焦りが加わり頭の中におかしな作用を及ぼしたのかもしれません。

 

私が止まった瞬間、切り戸口の内側では、モニター(舞台の映像が映される)を観ていた中所先生が、「真っ白になった!」と頭を抱えていたと、その場にいた稽古仲間から聞きました。

 

今回は、前回ほど私は最初緊張していなかったのかもしれません。もし、緊張していれば観客席に目は行かないと思うからです。どこかで、緊張が緩み、集中もできていなかったのでしょう。緊張していれば、頼るのは地謡しかないわけですから、地謡の謡いを集中して必死で聴いていたと思います。それさえできていれば、詞章と仕舞の型のリンクはかなり体に染み付いていたので、今回のような失敗はしなかったのでは。

 

前回は思いがけなく緊張しすぎて、今回は思いがけなく緊張しなくて、二度の失敗を繰り返してしまいました。緊張感を「うまく」コントロールし「うまく」集中すること、それが私の現在の大きな課題なのだと思います。次回、なんとか今回の学びを活かしたいと、本気で思っています。

 

まめ藤さんと.JPG

なお、終演後の宴会は思いっきり楽しみました。こっちは当初の期待通り、いや期待以上でした!!












******************** 2015/6/17 追記 ***************************

昨晩、中所先生とお会いする機会があったので、京都での失敗についてお詫びしました。すると、「我々だって、ああいうことは起きます。でも、すぐに戻れて良かったですね。謡をしっかり覚えていたから、その時の詞章を聞いてすぐに正しい仕舞の動きを思い出せたのです。謡を覚えておくことは絶対必要です。」とおっしゃいました。確かに、あの場面でもし謡を覚えていなかったら、と思うとぞっとします。大きな教訓です。

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このページは、福澤が2015年6月15日 11:59に書いたブログ記事です。

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