渋谷駅ビルのスクランブル交差点を見下ろせるところに行ってみると、確かにいました。たくさんのいかにも観光客という外国人(欧米系、アジア系問わず)が、嬉々としてスモホでスクランブル交差点を動画撮影しているはありませんか。
● こんな多くの人が一度に道路を渡っているのを見たことがないなあ。まるで打ち寄せては返す波のようだね。どうやったらあんなふうにお互いぶつからずに歩けるんだろう
こんな感想を持つ外国人が多いそうです。外の視点によって、自分自身に気づく代表例ですね。
では、なぜ我々日本人はこんな「芸当」が自然にできてしまうのでしょうか?人口過密地帯で日々暮らしているから誰でもできるようになる、と思ってしまいそうですが、本当にそうでしょうか?そこには、日本人が持つ独特の「DNA」があるような気がします。
日本の古典芸能の音楽では、指揮者らしき人はいません。歌舞伎や能の囃子方、文楽の太夫と三味線、どれも指揮者らしきものはなく、「息」を合わせることで調和を取っています。
息と同様大事なのは「間」です。絵画や建築物における2,3次元の間も日本の特徴ですが、その大元は時間に対する間だと思います。
免疫学者であり小鼓の名手だった多田富雄さんに、「間の構造と発見」という論文があります。その最初に、大正・昭和前半に活躍した大鼓の名手川崎九淵翁がNHKで能楽のスタジオ録音した際の発言に触れています。

「あなた方は、私が打つ大鼓の音ばかり録音しようとしているが、音と音の間の何も聞こえていない部分を録音しようとしていない。」
無音を録音はできません。しかし、「身体」が介在する能楽堂では、「間」という無音が聞こえるような気がします。その「間」を、舞台にいるシテや地謡も共有し、合わせることができるのでしょう。見物も、その間に吸い込まれ共有することで、一体感を得て、能の世界に没入できるのです。
多田氏はこう言います。
能のコスミックな音楽表現は、まさにこの自在な「間」の存在に依存している。と私は考える。物理的、時計的な時間とは違う、不思議な時の流れ。それを刻む決して正確に等間隔ではない身体的なリズム。(中略)
「間」というのは、前述の通りネガティブな「非存在」ではなくて、存在するもの相互の間に存在する緊張した時間と空間である。目に見える実体、あるいは耳に聞こえる音を取り去ったことによって新たに生成された何ものかなのである。(中略)
この「間」はやがて、日常生活の中にも侵入し、日本人独特の生活規範になってゆく。お互いの間に「間」を計り、それを微調整することによって孤立を避け、上下左右の流動的関係を作り出してゆく日本人の本性は、このあたりに基礎を持つのではないだろうか。
河合 隼雄

どうですか?スクランブル交差点を、何の苦も無く渡れるのは、「間」の概念が浸みついているからではないでしょうか。
ただ、間が機能するのはそれを無意識に内面化している仲間内だけです。そこに異分子が入ったらどうなることでしょう。見物する外国人は、自分たちがそれに同化できそうもないから、面白がっているのです。
また、間は孤立や非存在ではない。しかし、間ではない、絶対的な孤独や非存在に日本人が置かれたら、そこで耐える力を持っているでしょうか。夏目漱石は留学先のロンドンで、それに苦しんだのかもしれません。
渋谷のスクランブル交差点は、いろいろなことを考えさせてくれます。
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