大塚家具の公開親子喧嘩も、先週の株主総会で一段落しました。でも、これで平穏に戻るとは考えにくい。経営方針(経営戦略)では、現社長側が評価された形ですが、戦略はよくても実行できず失敗する企業はたくさんあります。逆に、戦略は大したことなくても、社員の実行力で成功する企業もたくさんある。

そもそも株主総会で判断させる事態にまで陥ったことが、大塚家具の将来を予見させるものだと思います。
資本主義、民主主義のルールにのっとって意思決定されたことは、形式的には正しい。でも、それでいいのでしょうか。政治の世界でも、多数決で勝つものの意見が正当性を持ち反論を許さない、という風潮が近年急速に広まってきています。しかし、それは元来我々日本人がもっとも恥ずべきこと、未熟ものと蔑まれてきたものなのです。
いきなり時代が遡って、聖徳太子の有名な言葉。
「和を以て貴しとなす」
これは、波風たてず一つに仲良くまとまろうという意味ではありません。(以前は私もそう思っていました)
この真意は、孔子の「君子は和して同ぜず」(論語)と対応しているようです。この「和」の語源は、安田登氏によるとこうあります。
日本人の身体 (ちくま新書)安田 登

「和」という漢字は、さまざまな音程を持つ笛を一緒に吹き、そこに調和を見出すことを意味する。
人間関係でいえば、さまざまな意見を持つ人が集まり、そこに調和を見出す、それが「和」の関係です。一方、「同」とはみんなが同じことする、させることです。
つまり、意見の多様性こそが重要で、一つの考えに凝り固めようとするのであれば君主にはなれないと、言っているのです。聖徳太子が「貴ぶ」のも「同」ではなく、多様な意見を引き出し、そこに調和を見つけることなのです。
それを現代人は、同調圧力によって「同」を迫ることをよしとしている。大きな勘違いです。
では、どうやって「和」するのか?
以前、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んだときに、村の寄合は全員一致が原則で、そうなるまで終わらないとあったのを、少し不思議に思いました。
忘れられた日本人 (岩波文庫)宮本 常一

今はなんとなく理解できます。多数決という概念はもともと日本人にはなかったようです。もし多数決を取れば、負けたほうがやる気をなくし、集団の成果を出すことの妨げとなると、わかっていたのではないでしょうか。現代の日本人にも、そういうじめっとしたところが残っている。
多数決原理に基づく「議論」は、「同」を無理やりつくりだす手法です。それに対して、日本人が志向したのは「和」です。「対話」がそのイメージに近い。あるいは、「三人寄れば文殊の智慧」という言葉に代表される、対話に参加している人の誰もが考え付かなかった結論が、自然に導き出されていく手法です。
日本人は、こうした「和」で合意を得る手法が得意だったはずですが、いつの頃からか、「受容」からスタートするのではなく、西洋近代発祥の「対立」からスタートすることをよしとしてしまいました。西洋では、意見の対立があっても多数決で決まれば全員、「自立した個」が確立されているが故に、それに従う潔さがあります。でも、2015年に至っても日本人の多くはそうではない。そこに、問題の根っこがあるように思います。
大塚家具の社員は、99%日本人でしょう。多数決に基づく社長方針に従って、活き活きと仕事できれば問題ありませんが、きっと容易ではないでしょう。また、日本国民のほとんども日本人。「和」の政治を忘れた日本に、成長力は生まれないでしょう。
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