ブログ管理者: 2009年12月アーカイブ

説明責任と効果測定

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事業仕分けは、政府の予算策定プロセスを透明にした点で、批判はたくさんあるとは思いますが、画期的なことだったと思います。

 

一方、予算削減に反対して気勢を上げたノーベル賞受賞者や、オリンピックメダリストたちは、残念ながら逆効果だったのではないでしょうか。科 仕分け.jpg学やスポーツが国家にとって大事であるとしか言っておらず、かえって「本当にそうなの?他の使い道に比べて、なぜ大事なのかわかるように説明してよ。」という疑問に答えられていなかったからです。それが、彼らの反論は内輪の論理にしか過ぎないと印象を与えたのではないでしょうか。つまり、説明責任を果たしていない。

 

 

ところで、今朝の日経に、GEの人材育成に関する記事がありました。その中で、GE人材教育担当副社長が、金融危機後の方針についてこう言っています。

 

「(人材育成に対する)イメルト氏の姿勢、予算は変わらない。経営陣は幹部教育を時間と金をかけるに値する投資と捉えている。教育の予算を正当化したり、投資効果を考えるより、教育の中身を考える。」

 

米国企業の中でもGEは、投資対効果にシビアなことは間違いありません。でも、もはや人材育成は、投資対効果を云々する段階を超えているのでしょう。それに比べ、多くの日本企業は、「人材育成の費用対効果はどんなんだ」、「効果測定はできているのか」などと、こと教育投資に関しては緻密な議論を好むことがあります。まるで、教育投資をしない言い訳を探しているように見えることもあります。これは一体なぜなんでしょうか?

 

透明性と説明能力に原因があると思います。先の事業仕分けの例でいえば、予算を使用する側も、配分する側も、透明性も説明責任も果たしてこなかった。だから、国民は疑心暗鬼となり、投資効果を激しく求める。

 

日本企業の教育投資も、経営陣や社員に対してはたしてどれだけ透明性を持って説明責任を果たしてきたか、よく考えてみる必要がありそうです。人材開発部門が、経営陣へその施策の重要性や価値を、どれだけ彼らが納得するような形で説明してきたでしょうか。また研修を受ける社員や彼らの上司に、どれだけ何としても受講したいと思わせるだけのプログラムを用意し、かつそれを伝えてきたでしょうか。

 

それらが不十分であれば、事業仕分けと同じように、結局費用対効果を定量的に示せ、ということにならざるを得ないのではないでしょうか。本当に重要だと、経営陣も社員も納得できたら、末梢の議論などに時間を割かないはずです。

 

 

早くGEのように「大人の集団」となり、競争力強化のために議論に集中したいものです。

有名な中古車市場の例です。販売会社は、売り物の中古車の性能や履歴を把握していますが、買い手は情報を持っていません。すると、買い手はどんなポンコツを掴まされるか分かったものではないので、出来るだけ安く買おうとします。

 

販売会社が、これは高品質なんだといくら説明しても、疑いははれません。その結果、低品質の中古車のものに収れんしていってしまいます。そうなると、高品質の中古車は、市場に出回りにくくなり、結局市場は破たんします。これが、情報の非対称性の問題です。

 

もし、ほとんどの販売会社と買い手が長期的取引で成果をあげているのであれば、大きな問題にはなりません。しかし、市場が急成長しているような時期であれば、hit & awayの悪徳販売会社も生き残るチャンスがあるわけです。

 

 

その対策には、シグナリングとスクリーニングがあります。研修講師と研修を実施する企業の関係で考えてみましょう。

 

    シグナリング(情報優位者による)

講師はもちろん自分の実力を把握しています。一方、初めて依頼することを検討する企業は、講師の実力の情報を持っていません。優秀な講師は、ポンコツ中古車と一緒ではないとの情報を提示しなければなりません。本来、そのような場合に有効なのは、資格制度です。大学教員も、研修講師も、日本では資格制度はありません。多くの他の業界では、業界団体や一部の目端の効く人が認定制度を自主的に制定し、運営しています。が、その信憑性は、?のものも多いようです。

 

そこで、reputation(名声/評判)を頼ることになります。過去の顧客リストや、著作物などを提示します。かつては、著作を持つことはそれなりの名声になったようですが、現在では、出版社によってはお金次第です。なので、講師が良いシグナルを発するのは決して容易ではありません。結局、講師の属する研修ベンダーのreputationに依存することも多いようです。

 

そこには、モラルハザードが生まれる余地があります。つまり、講師にとって、研修ベンダーのreputationがあるのだから、それほど一所懸命に準備しなくてもなんとかなるとの甘えが発生する可能性です。それを防ぐには、研修ベンダーの厳しいチェックとフィードバックが欠かせません。ただ、それには多大な手間と評価者の高い能力が必要で、非常にコストがかかります。(受講者アンケートは、一側面しか評価されません)なかなか、難しい問題です。

 

●スクリーニング(情報劣位者による)

企業側は、面談や講師にデモを実施してもらってテストすることができます。あるいは、研修の目的やゴールイメージ、受講者の特性などの詳細情報を提示し、それに対してどのようなアプローチを講師が取ろうとするかを提案させることができます。提案内容をみれば、その講師がどの程度のレベルなのか、またどの程度コミットしてくれそうか、などの情報を入手することができるでしょう。つまり、情報開示させる機会を用意するわけです。

一見、良さそうな解決策ですが、これも容易ではありません。企業側が、まず適切な情報(企画内容等)を講師に提示できるか、また講師の提案やデモを正しく評価できるか。もしそれらができなければ、「優秀な講師」はその提案やデモという手間をかけようと思わなくなってしまう可能性もあります。つまり、評価する側の能力が問われるわけです。

 

 

このように、情報の非対称性は、なかなか手ごわい問題です。でも、そこのソリューションを見つけ出していかなければ、市場はいびつになり、いつまでたってもあやしい業界と見なさ続けることになるでしょう。

日経朝刊の「やさしい経済学―日本の『長い近代化』と市場経済」(by東京大学中林真幸准教授)が面白いです。

 

明治・大正期に日本の輸出を支えた製糸業は、女工哀史で有名ですが、実は現在の経営に通じる多くの革新がなされていました。そこに、今の経営問題へのヒントもたくさんありそうです。

  富岡製紙工場.jpg 

昨日の稿によると、糸の品質を向上させ、輸出競争力を高めるために、全量検査を取り入れました。それはすなわち、女工の能力を計測することにつながります。生産性を上げるために、徹底した成果主義が採用されました。生産性が高いものは、男性監督官よりはるかに高い賃金が支払われました。それが全体的な品質と生産性の向上につながり、全体の賃金水準も向上したのです。

 

ここでの示唆は、成果主義を採用するには、成果測定に費やすコストと人件費総額の増加を前提にしなければならないということです。バブル崩壊以降に広まった日本企業の成果主義とは、成果測定をあいまいにし、また総額人件費の増加は覚悟していなかったでしょう。逆に総額を抑えるための成果主義と判断されても仕方のない運用だったと思います。その揺り戻しが、現在来ているのです。形だけ真似ても魂が入っていない典型と言えるでしょう。

 

今日の稿には、当時家事という個別スキルしか持てなかった女性が、上記のような成果主義の職場を獲得することにより、「亭主持ちの窮屈」を「忍ぶ」よりも、「自働自営」の「気楽」を選ぶようになったとあります(「信濃毎日新聞」1893826日号より)。100年以上も前の記事です!!

 

また、女性をサラリーマンと読むこともできそうです。これまで終身雇用先企業における個別スキルのみを磨いてきた社員が、市場で評価される普遍スキルの獲得を目指し、労働市場へ参入する。これは、歴史的な流れの一部なのでしょう。ただ、女性の「婚活ブーム」は、その流れに逆行しているように思えますが・・・。

 

日本の企業や社会の特殊性を必要以上に言い訳にする論調がありますが、歴史を紐解いてみると、必ずしもそうではないと発見することがあります。特殊なのではなく、それを隠れ蓑にして、徹底した合理的経営がなされてこなかったのかもしれません。短期的には不合理に見えても、長期的には合理性に適うことはたくさんあります。時間軸を考慮した上での合理性の追求が、今あらためて求められているのだと思います。

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