イメージによるコントロール:映画「演劇1」&「演劇2」を観て

演劇から学ぶことはとてつもなく多い、そんなことをあらためて時間させられる5時間40分(合計)でした。この作品は、想田和弘監督がひたすら平田オリザを追い続けた観察映画です。ここまで撮るかというところにも、カメラは空気のようにそこに存在し続けます。

 

ペルソナの集合体である人間に「本当の自分」などないと、学校教師を対象とした講演で平田は強調します。子供たちに「本当の自分」探しを求める教師への一撃です。(自分探しの旅と称して、世界じゅうを周った元サッカー選手もいましたが、そんなことをする自分自身が「本当の自分」なのです)本当の自分を探すよりも、本当の自分を自信を持って表現できない環境にこそ、手を打つべきです。

 

ところで、目黒の市民会館みたいなところで夏休み、平田が地元の中学生に演劇のワークショップを行っているシーンが、何度も出てきます。そこでの発言に、彼の演劇に対する考え方のエッセンスが現れてきていました。なるほど、と膝を打つような言葉がいっぱい・・。

 

その中で、下手な戯曲作家の共通点として挙げていたのが、結末に一番エ

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ネルギーを注いでいる点です。上手い作家は、起承転結の起に最大のエネルギーを注ぐ。理由はこうです。演劇は舞台の制約上、映画やTVドラマのように、ストーリーの全体をシーンとして表現することはできない。それなので、観客の想像(イメージ)に多くを委ねなければならない。そのためには、作家の意図にできるだけそったイメージを持ってもらいたい。そのように観客にイメージを共有させるために重要なのが、「起」のつくりなのです。これから始まる物語をイメージしてもらうための枠組みを組み込むわけです。最初に作家の意図に沿ったイメージの枠組み(スキーマ)をつくってもらえれば、後はたとえシーンがなかったとしても、欠落している部分は観客がイメージしてくれる。

 

初期にモードを設定させることで、多くの観客のイメージをコントロールするわけです。この技術は演劇以外でも、あらゆる場面で使えそうです。企業でのプレゼンテーション、政治家の演説、企業研修の講師などなど。

 

ないものをイメージさせるということでいえば、落語も全く同じですね。話に入る前の「枕」は、演劇と同じようなモード設定の作業なのでしょう。演劇にしろ落語にしろ、人間はイメージすることで喜びを増す生き物のようです。ただ、残念ながら現在は、できるだけイメージにしなくてもすむような環境を是とするような風潮があるのではないでしょうか。「できるだけ具体的にわかりやすく」、「誰もが同じように間違いなく理解できるように」、そんなことばかりを追い求めている。そうなると、結局最大公約数的なものしか残りません。今のTV番組がそれを代表しているのかも。

 

正確過ぎてとても読む気になれない電気製品のマニュアル、これでもかこれでもかと連呼する電車の社内アナウンス・・・。アップル製品が世界中で人気があるのは、人間のイメージに頼ることを前提とした製品づくりをしているからなのかもしれません。

 

 

制約された舞台空間において、多様な観客の心を揺さぶることに腐心してきた演劇には、これからのサービス化された社会を切り開いていくヒントが、まだまだ沢山ありそうです。

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このページは、福澤が2012年11月21日 18:05に書いたブログ記事です。

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