福澤: 2012年6月アーカイブ

アップルがほぼ占有しているタブレット市場に、アマゾン、マイクロソフトどころかグーグルまでが自社製品(ハード)を引っ提げて参入するとの発表がありました。ここは、ソニーやNEC、東芝といった日本メーカーからサムソンまで既に参入済ですが、ほとんどアップルの地位を揺るがせることができていない市場です。

 

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なぜグーグルはスマートフォンと違い、自らハードを開発することにしたのか。アンドロイドを無償提供し他社にハードを造らせて、アップル包囲網を築いたスマホとは何が異なるのか。興味はつきません。Google nexusという自社製スマホもありましたが、大したた地位を獲得できませんでした。それと同じことなのか)

 

その前に、アップルが開拓したタブレット市場に参入する理由を考えてみましょう。ひとつは、急成長する市場からたとえ一部でも利益を獲得したいという、(言い方悪いですが)「おこぼれ頂戴」戦略、戦略論でいえば模倣戦略です。もうひとつは、これからまだ成長する市場において、自社独自能力を活用することで、市場の発展進化をドライブすることができると考え、参入する「進化加速」戦略です。

 

残念ながら日本メーカーは、全ておこぼれ頂戴戦略でしょう。高度成長期の松下のようにその戦略で成功することは、21世紀にはもうあり得ないと考えます。一方、アマゾンのキンドル・ファイアは、アップルが開拓したタブレット市場を、別の方向へ進化させることを狙っているのだと推測します。(まだ使ったことがないのであくまで想像です)

 

では、マイクロソフトやグーグルはどちらなのでしょうか?何を狙っているのでしょうか?誇り高いマイクロソフトやグーグルが「おこぼれ頂戴」戦略をとるとは思えないのですが・・・・。

昨晩到来した台風4号は、未明には東京周辺を通過し、今朝は晴れていました。道路には強風で吹き飛ばされた木の枝や葉っぱが散らばっています。近所の神社では、朝から氏子さんらが集まって掃除に精を出していました。毎年、数回は必ず見られる風景です。

 

風で吹き飛ばされた枝葉には気の毒ですが、この不定期に起こる台風があるから、古い木々も生き続けることができるともいえそうです。弱った枝葉が木に残っていると、元気な葉っぱへの太陽光線が遮断され、成長が妨げられます。庭木や里山で大事に世話されている木であれば、人間が枝葉払いをしてくれますが、多くの自生している木々は人間に頼れません。そこで代わりに台風がその役割を担っているのです。

 

森の間伐も全く同じです。間伐されない森は、日光が当たらず暗くじめじめした多くの生物にとっては好ましくない場所になります。密集する木々が限られた日光を奪うように上に伸びていくので、細く弱弱しいのっぽの木ばかりになります。そんな木は、強風にさらされると、簡単に折れてしまいます。それによって、光は多少射すようになるのですが、折れた木がそのまま放置されると森は荒れていきます。だから、枝葉でなく幹そのものの間伐は、人間によって計画的になされる必要があります。林業従事者は、それを主要な仕事にしています。

 

台風一過、こんなことを考えていると、人間も企業も全く同じだなあと感じます。企業における台風とは、リーマンショックのような、予測できない急激な経営環境の悪化でしょう。いつ来るかは予測できませんが、必ず来るものです。その時に、自然の流れに沿って枝葉を払うべきです。それが、次の成長の糧になるのですから。しかし、人為的な組織である企業は、頑張って風に逆らい枝葉を残すことを選びます。そして自然死するまで温存するのです。また、間伐もそう簡単には行えません。

 

企業にとって枝葉が社員だとすれば、自然死とは定年を意味します。企業にとっては望ましくないでしょうが、社員にとってはありがたいことにようにも思えます。

 

視点を変えて、人間(社員)が木だとしましょう。年数を経て、たくさんの枝葉をのばしながら成長します。その中で「会社」という枝だけをどんどん伸ばすと、それに妨げられ他の枝の成長は妨げられ、いびつになった幹の成長そのものも遅くなります。時々訪れる台風で、大きな枝が間引かれればいいのですが、そこは頑張って踏みとどまります。やがて、その大きな枝は自然死を迎えます。その重さに耐えられずバッサリ落ちた大きな枝、やっと他の枝にも光が当たるかと喜ぶのですが、既に他の枝葉は長い間光があたらなかったため、死んでしまっていた。本当は、もっともっと大きな枝に育つ可能性があったかもしれない枝も、です。そして幹の成長も止まっていた。なんとか、子孫を残すことはできたものの・・。

 

 

先日、銀行時代の同期に電車でばったり会いました。彼は新任支店長研修を受けた帰りとのこと。一店舗だけ支店長をやらしてもらって、2年後には出向だと言っていました。限られた役員候補以外はみんなそうなのです。(ちなみにそこの銀行員は40歳になると全員「キャリア研修」を受けます)もうそんな年齢かと、知ってはいましたが、あらためて驚きました。出向したからといって、生活に困ることはありません。でも、彼は出向した後、どんな枝を伸ばしていくのでしょうか。もちろん体力も知力もまだ十分なので、いろんな可能性はあるでしょう。でも、今更もう遅いという諦めも一方で抱いているようです。

 

これは大変な人的資源の無駄遣いではないでしょうか。誰が悪いということではありません。自然の摂理に合わせて、枝葉を適宜落としていれば、森全体でみればもっと健康で充実したものになっていたはずです。そう、多くの種類の活力ある木々で満ち溢れた森に。そこには、鳥やリスなど多くの生き物も集まってきます。

 

人間も大自然の一部なのだと、あらためて感じました。

「センス」という言葉ほど、わかったようでわからない言葉も珍しい。でも、確かにあります。ファッションであれば、目でその対象を見て確認できるのでわかりやすいですが、こと仕事でのセンスとなると、なかなか把握することも難しいです。

 

サッカー選手にもセンスが求められるといいますが、それは一体何でしょう?今朝の朝日新聞に長友選手の考えがありました。

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その瞬間に一番ゴールに近い選手は誰なのか、次の動きでいい位置に入ろうと思っているのは誰なのか。それが見えなければならない。よく言われる「視野の広さ」とは違う能力だという。ピッチのどこをいつ見ているのかというセンスだ。そこにはひらめきの要素が含まれる。

 

視野の広さは静態的なものですが、彼が重視しているのはもっと動態的かつ心理的で、不確実な未来を洞察する能力だといえるでしょう。「見る」という言葉を使っていますが、「見る」でも「視る」でもなく「観る」だと思います。これは私の解釈ですが、「見る」や「視る」の対象は二次元や三次元なのに対して、「観る」は四次元以上を対象としています。

 

「ピッチのどこをいつ見ている」かは、いったいどうやって決めているのか。質問しても答えられないでしょう。それがセンスです。もちろん訓練の末に獲得されたものですが、いくらサッカーの練習を繰り返したとしても獲得できるとは限りません。

 

なにを磨かなければならないか。それは感性ではないかと長友は思う。練習のない日は、できるだけ体を休めるために自宅で過ごすことが多かったが、最近は気持ちをフレッシュにしておくことを大事にしている。散歩をしたり、カフェでくつろいだり、ブティックに入って店員と言葉を交わしたりして、サッカー以外のことを考える。(中略)一流のサッカー選手になるには、サッカーの技術だけを身につければいいというものではない。

 

サッカーという高い技術と鍛え抜かれた肉体を基盤とする競技の最先端に位置する長友が、自らの能力を高めるために、積極的な意味で「カフェでくつろぐ」と言っているのは非常に興味深い。ここでは、リフレッシュの重要性を述べたのではないだろう。サッカー選手としてのセンスを磨くには、サッカー以外からの刺激が必要不可欠だといいたいのだと思います。人間は、限られた世界からの刺激を受け続けてもどこかで限界がくる。全く異なる世界の刺激から、予期しないヒントや知恵を獲得することで、一皮むけることができるのではないでしょうか。それをわかりやすくいうと、人間の幅や厚みがついたということなのでしょう。

 

それには時間が必要です。一定の時間をかけて、多方面からの良い刺激を受け続け、しかもそれを咀嚼できはじめて「センス」を身につけられるのだと考えます。時間と刺激の量をそれほど必要としないのが天才です。長友は天才ではないかもしれませんが、技術と肉体、体力に加えセンスを意識し出した長友選手のこれからがますます楽しみです。

 

サッカー選手に限らず、あらゆる人にとって「センス」はますます重要になってくることでしょう。

この日曜日、埼玉スタジアムでサッカー日本代表対オマーン戦を観戦してきました。日本代表の試合を観ること自体初めてですし、ましてやワールドカップ予選です。思った以上の迫力で、場を共有することの意味をあら

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ためて考えさせられました。選手が、「スタンドの応援によって勝つことができた」とよく試合後のインタビューで答えますが、お世辞ではなく本当にそうなんだなあと思えるくらい、選手を後押しするエネルギーをひしひしと感じました。

 

試合中継をTVで観るのと、録画しておいて観るのではないが違うか?もちろん再生時点で結果は知らないとして。

 

また、試合をTV観戦するのと、試合会場で観戦するのでは何が違うか?

 

TV中継は、生でなければほとんど価値は感じません。録画であれば、いいプレイをリピートしたり、逆にCMを飛ばしたりでき便利といえば便利です。でもそれとはまったく異なるモノが決定的に欠けてしまう。それは何か。時間を共有している感覚だと思います。それが共感となって、他のどこかにいる多くサッカーファンや選手たちと、つながっている感覚といえます。だからどうだと、説明するのは難しいですが。妻などは後でスポーツニュースを見ればいいじゃん、といいますが、そういうものではないのです。録画では、共感は全く得られません。

 

試合会場での観戦となると、さらに時間だけでなく場所も共有され、共感のレベルが急激にアップします。そして、「場」の力を痛感します。大きなものの一部になっている感覚といえるでしょうか。その場の中では、膨大なつながりのネットワークの中で自分の感覚が解放され、根拠のない力を持った気分になります。ここで自分が念ずことでゴールが生まれるのだ、という確信。もちろん実現することはほとんどないのですが、そんなことはどうでもいい。合理的思考とは全く異なる思考がはたらきます。

 

幸いゲームは日本代表の圧勝、スタジアムの高揚感はなんとも心地いいものでした。もし負けゲームだったら、どんな気分が覆ってしまうのか、ちょっと不安がになってしまったくらい。

 

ゲーム終了直前、私たちのような軟弱なファンは、早めに会場を出て駅に急ぎます。駅まで1.5Kmくらいあるのですが、勝ちゲームの高揚感もあったからか、皆小走りで駅に向かいます。体も軽かったのです。

 

満員電車のような社内では、勝った勢いで大騒ぎするようなファンはいません。ちょっと意外だったのですが、皆行儀正しいのです。日本代表のユニフォームを着用し一人で来ているおじさんファンも珍しくありませんが、そうひとは何事もなかったように、難しそうな専門書を読みふけっていたりします。巨人戦が終わった直後の総武線社内と、随分雰囲気が違います。スタジアムという場を離れれば、それまで満ち満ちていた共感はすっかり影をひそめて、またひとりひとりに戻ったかのようです。私のような軟弱なファンが集まる時間帯の電車だということもあるかと思いますが、ちょっと不思議な体験でした。

 

 

音楽の世界でも、CDや配信の売れ行きは伸びなくても、時間と場所を共有するライブの動員力は高まっていると聞きます。デジタル化により情報が増えれば増えるほど、相対的に入手困難なアナログ情報(その一つが場の力)の価値が高まっていくことでしょう。音楽やスポーツに限らず、あらゆる世界においていえることだと思います。

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